【感想】お店から盗って来た本くれる彼 竹井紫乙
- 2014/07/30
- 12:32
お店から盗って来た本くれる彼 竹井紫乙
【世界一短い世界征服】
さいきん短詩型文学と〈悪〉についてかんがえていて、で、たとえば川柳のなかで〈悪〉はどんなふうにあらわれるんだろうとかんがえてみたときに、ひとつの〈悪〉の例示となるのが竹井紫乙さんのこの句なのではないかとおもうんですね。
たとえばこの句のなかにおける〈悪〉とは、「彼」が「お店」から本を「盗」ってきてしまうことです。いわゆる、〈万引き〉です。
しかし難しいのは短詩型というその〈短さ〉ゆえにこの〈悪〉の状況がどういった状況なのか、またその本をもらっている語り手が「彼」の〈悪〉に対してどのようにかんがえているのか、そもそもこの語り手はどういった〈倫理観〉をもっているのかがわからない。
たとえば、お店から本を万引きしちゃう彼なんだけれど、語り手がその行為を言説化している様子をみると、「(お店から盗って来た本くれる)彼」と、これはもうすべてが「彼」という消失点へとひたむきにむかう句なんです。つまり、形式としては「彼のことダイスキ」とも読めるとおもうんです。そんなにも〈悪〉を超えてわたしに想いをささげてくれて、愛してくれてありがとう、と。
しかし、その一方で、語り手は彼に対して批判的であるともいえます。なぜなら、読み手に対して、倫理的にはゆらいでいる「彼」の立場をばらしてしまっているからです。しかも語り手はその彼の立場に倫理的判定をくわえないことによってあえて読み手が判定するようにさしむけるからです。しかし読み手があたえられる構造は、この句における彼と語り手の対幻想しかみえません。とくに彼をかばう理由はないのです。だからわたしたちはこの句における「彼」を〈悪〉だと判断する。しかし、判断させたのはじつはそういう言説構造をとった語り手なんじゃないかとおもうのです。
そうすると驚くべきところにたどりつくような気がします。つまりこの句においていちばんの〈悪人〉は、彼の行動を判断をくわえることもなしに悪事をばらし、しかも自分は裁定しないかたちでその悪事にくわわり、そうすることによってわたしたちに悪を判定させようと〈それとなく〉させているこの語り手こそがいちばんの〈悪人〉なのではないか、と。
そしてこの句のおもしろさとテーマはそこにあるのではないかとおもうのです。つまり、〈詠む〉ことと〈読む〉ことは〈悪〉とどうかかわりあうのか。
わたしたちが、描かれた〈悪〉にただたんにであい、ああこれ悪いなあ、とおもうことが、じつは〈悪〉ではない。
表象における〈悪〉とは、語り手の言説操作、もしくは無意識のうちに内在している〈悪〉の言説構造に読み手であるわたしたちがそれとなくハマってしまい〈悪〉の主題をわたしたちの〈手〉と〈眼〉と〈こころ〉で生成してしまうこと。それが表現における〈悪〉なのではないでしょうか。
ですから、〈悪〉についてこんなふうにまとめてみたいのです。その構造化できない短さによる無根拠性ゆえに逆に構造化する構造として〈悪〉を描けてしまうのが川柳なのではないかと。
恋人は死んでほしいと期待する 竹井紫乙
【世界一短い世界征服】
さいきん短詩型文学と〈悪〉についてかんがえていて、で、たとえば川柳のなかで〈悪〉はどんなふうにあらわれるんだろうとかんがえてみたときに、ひとつの〈悪〉の例示となるのが竹井紫乙さんのこの句なのではないかとおもうんですね。
たとえばこの句のなかにおける〈悪〉とは、「彼」が「お店」から本を「盗」ってきてしまうことです。いわゆる、〈万引き〉です。
しかし難しいのは短詩型というその〈短さ〉ゆえにこの〈悪〉の状況がどういった状況なのか、またその本をもらっている語り手が「彼」の〈悪〉に対してどのようにかんがえているのか、そもそもこの語り手はどういった〈倫理観〉をもっているのかがわからない。
たとえば、お店から本を万引きしちゃう彼なんだけれど、語り手がその行為を言説化している様子をみると、「(お店から盗って来た本くれる)彼」と、これはもうすべてが「彼」という消失点へとひたむきにむかう句なんです。つまり、形式としては「彼のことダイスキ」とも読めるとおもうんです。そんなにも〈悪〉を超えてわたしに想いをささげてくれて、愛してくれてありがとう、と。
しかし、その一方で、語り手は彼に対して批判的であるともいえます。なぜなら、読み手に対して、倫理的にはゆらいでいる「彼」の立場をばらしてしまっているからです。しかも語り手はその彼の立場に倫理的判定をくわえないことによってあえて読み手が判定するようにさしむけるからです。しかし読み手があたえられる構造は、この句における彼と語り手の対幻想しかみえません。とくに彼をかばう理由はないのです。だからわたしたちはこの句における「彼」を〈悪〉だと判断する。しかし、判断させたのはじつはそういう言説構造をとった語り手なんじゃないかとおもうのです。
そうすると驚くべきところにたどりつくような気がします。つまりこの句においていちばんの〈悪人〉は、彼の行動を判断をくわえることもなしに悪事をばらし、しかも自分は裁定しないかたちでその悪事にくわわり、そうすることによってわたしたちに悪を判定させようと〈それとなく〉させているこの語り手こそがいちばんの〈悪人〉なのではないか、と。
そしてこの句のおもしろさとテーマはそこにあるのではないかとおもうのです。つまり、〈詠む〉ことと〈読む〉ことは〈悪〉とどうかかわりあうのか。
わたしたちが、描かれた〈悪〉にただたんにであい、ああこれ悪いなあ、とおもうことが、じつは〈悪〉ではない。
表象における〈悪〉とは、語り手の言説操作、もしくは無意識のうちに内在している〈悪〉の言説構造に読み手であるわたしたちがそれとなくハマってしまい〈悪〉の主題をわたしたちの〈手〉と〈眼〉と〈こころ〉で生成してしまうこと。それが表現における〈悪〉なのではないでしょうか。
ですから、〈悪〉についてこんなふうにまとめてみたいのです。その構造化できない短さによる無根拠性ゆえに逆に構造化する構造として〈悪〉を描けてしまうのが川柳なのではないかと。
恋人は死んでほしいと期待する 竹井紫乙
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の川柳感想