【感想】百枚のまぶたつぎつぎ閉じられてもう耳だけの町となりたり 久野はすみ
- 2014/07/30
- 13:05
百枚のまぶたつぎつぎ閉じられてもう耳だけの町となりたり 久野はすみ
【耳だけの町と、圧倒的で特権的な〈孤独〉】
すごくふしぎな歌なんですが、この歌でまずひとつ注意したいのは「百枚」ということばです。
語り手はどういうわけか閉じられるまぶたが「百枚」とわかっている。ここにわたしは注意してみたいです。
約百枚ではなく、たくさんのでもなく、「百枚」きっかりとわかっている。
この正確な百枚という数字にわたしはこの歌のシステマティックな面があらわれているのではないかとまずおもうんですね。
たとえばあらためて「まぶた」を閉じるというのもふしぎで、「眼をとじる」じゃなくて語り手は「まぶた」を閉じると語っています。
これも語り手にとって「まぶた」という人体=身体としての語彙を「眼」という統括的な〈みる〉器官としてとらえるよりは、「まぶた」という微分=機能的なシステムとしてとらえているところから起こっているのではないかとおもうんです。
また「つぎつぎ」という非人称的な動態記述も主体性を稀薄化させ、システマティックにさせているんじゃないかと。たとえばそうした「つぎつぎ」としてのシステマティックな働きは飯田有子さんの次のような歌にもあらわれていたことをおもいだしてもいいかもしれません。
のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢 飯田有子
で、ですね。飯田さんの歌の語り手がシステムのなかで、そのシステムの底において「夢」をみていたように、久野さんのうたでも、語り手がいまどこにいてなにをしているかというのが大事なのではないかとおもうんですね。
で、下の句をみてみると「もう耳だけの町となりたり」と語り手は語っています。ここでは「たり」という存続の助動詞がたいせつです。なぜなら、語り手は「耳だけの町となっ《ている》」その過程を〈目撃〉しているからです。
つまり、奇しくも飯田さんの歌も「夢」という〈みる〉ことの孤独において歌がおわっていたのですが、こよ久野さんの歌もすべての〈みる〉機能がシャットダウンされたなかで、また〈み〉つづけなければならない語り手の〈孤独〉を描いたうたではなかったとおもうのです。
〈耳〉というのは〈眼〉とちがってシャットダウンできないところに特徴があります。永遠にシャットダウンできないということは、ひとはある意味、ベーシックな部分では〈耳〉で共感覚をきづいているともいえます。あっちこっちそっぽをむきあってもおなじことは聞いているのです。しかしその〈聞く〉という耳の町への変貌を記述し目撃していたのがこの語り手です。
飯田さんの歌の「つぎつぎ」という連続的なあふれる〈多〉としての「腕」が、「夢」という〈一〉なる孤独でおわっているように、〈みる〉といった根底には、〈この・わたし〉しか〈いま・ここ〉からしか〈たったひとり〉でしかみることはできない、といった根底的な〈孤独〉があります(ここで倉持裕さんの戯曲『ワンマン・ショー』における緑川緑のセリフを思い出してもいいかもしれません。本文下記引用参照)。そしてそれが「耳だけの町」における語り手としての〈この・わたし〉の〈根底的孤絶〉でもあったのではないかとおもうのです。
しかしそれでもその〈みる〉ことを〈夢〉をみているかのようにあきらめ(られ)なかった語り手が、その〈みる〉ことによって〈みない〉ことのシステムからはじきだされてしまっているのがこの久野さんの歌なのではないかとおもうのです。
背伸びするわたしの指のその先を見ていてくれる約束だった 久野はすみ
ねえ、この時間、そこに立ってる人間はあなただけなのよ? あなたがそこを動かない限り、誰一人そこには立てないの。そしてそこから私を見られるのはあなただけ! (適当な場所を指し)仮にあっちから私を見てる人がいても、あの人は、あなたが見ている私は絶対見れないの! さあ、それが分かったらとっとと決め付けて! 温度なんかにかまけてないで、私を……その圧倒的に特権的な立場で、私を決め付けていきなさい!
倉持裕『ワンマン・ショー』
【耳だけの町と、圧倒的で特権的な〈孤独〉】
すごくふしぎな歌なんですが、この歌でまずひとつ注意したいのは「百枚」ということばです。
語り手はどういうわけか閉じられるまぶたが「百枚」とわかっている。ここにわたしは注意してみたいです。
約百枚ではなく、たくさんのでもなく、「百枚」きっかりとわかっている。
この正確な百枚という数字にわたしはこの歌のシステマティックな面があらわれているのではないかとまずおもうんですね。
たとえばあらためて「まぶた」を閉じるというのもふしぎで、「眼をとじる」じゃなくて語り手は「まぶた」を閉じると語っています。
これも語り手にとって「まぶた」という人体=身体としての語彙を「眼」という統括的な〈みる〉器官としてとらえるよりは、「まぶた」という微分=機能的なシステムとしてとらえているところから起こっているのではないかとおもうんです。
また「つぎつぎ」という非人称的な動態記述も主体性を稀薄化させ、システマティックにさせているんじゃないかと。たとえばそうした「つぎつぎ」としてのシステマティックな働きは飯田有子さんの次のような歌にもあらわれていたことをおもいだしてもいいかもしれません。
のしかかる腕がつぎつぎ現れて永遠に馬跳びの馬でいる夢 飯田有子
で、ですね。飯田さんの歌の語り手がシステムのなかで、そのシステムの底において「夢」をみていたように、久野さんのうたでも、語り手がいまどこにいてなにをしているかというのが大事なのではないかとおもうんですね。
で、下の句をみてみると「もう耳だけの町となりたり」と語り手は語っています。ここでは「たり」という存続の助動詞がたいせつです。なぜなら、語り手は「耳だけの町となっ《ている》」その過程を〈目撃〉しているからです。
つまり、奇しくも飯田さんの歌も「夢」という〈みる〉ことの孤独において歌がおわっていたのですが、こよ久野さんの歌もすべての〈みる〉機能がシャットダウンされたなかで、また〈み〉つづけなければならない語り手の〈孤独〉を描いたうたではなかったとおもうのです。
〈耳〉というのは〈眼〉とちがってシャットダウンできないところに特徴があります。永遠にシャットダウンできないということは、ひとはある意味、ベーシックな部分では〈耳〉で共感覚をきづいているともいえます。あっちこっちそっぽをむきあってもおなじことは聞いているのです。しかしその〈聞く〉という耳の町への変貌を記述し目撃していたのがこの語り手です。
飯田さんの歌の「つぎつぎ」という連続的なあふれる〈多〉としての「腕」が、「夢」という〈一〉なる孤独でおわっているように、〈みる〉といった根底には、〈この・わたし〉しか〈いま・ここ〉からしか〈たったひとり〉でしかみることはできない、といった根底的な〈孤独〉があります(ここで倉持裕さんの戯曲『ワンマン・ショー』における緑川緑のセリフを思い出してもいいかもしれません。本文下記引用参照)。そしてそれが「耳だけの町」における語り手としての〈この・わたし〉の〈根底的孤絶〉でもあったのではないかとおもうのです。
しかしそれでもその〈みる〉ことを〈夢〉をみているかのようにあきらめ(られ)なかった語り手が、その〈みる〉ことによって〈みない〉ことのシステムからはじきだされてしまっているのがこの久野さんの歌なのではないかとおもうのです。
背伸びするわたしの指のその先を見ていてくれる約束だった 久野はすみ
ねえ、この時間、そこに立ってる人間はあなただけなのよ? あなたがそこを動かない限り、誰一人そこには立てないの。そしてそこから私を見られるのはあなただけ! (適当な場所を指し)仮にあっちから私を見てる人がいても、あの人は、あなたが見ている私は絶対見れないの! さあ、それが分かったらとっとと決め付けて! 温度なんかにかまけてないで、私を……その圧倒的に特権的な立場で、私を決め付けていきなさい!
倉持裕『ワンマン・ショー』
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