【短歌】ディズニーの…(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/7掲載 加藤治郎選)
- 2014/04/08
- 23:13
ディズニーのテクニカラーの象たちが高熱のたび部屋埋めつくす 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/7掲載 加藤治郎選)
【自(分で)解(いてみる)-ピンクの象は、好きですか?-】
じっさいに風邪をひいて寝込んでいるときに作ったうた。
ディズニーの『ダンボ』に酔っ払ったダンボの頭上をピンクの象たちが行進する有名なシーンが、ある。
非常にサイケデリックかつ幻覚的なシーンで、ディズニーアニメーションのラディカルな感じがよくでている(ちなみにプーさんにもズオウとヒイタチというやはりプーさんの夢のなかで繰り広げられる幻覚的シーンがある)。
なぜ、幻想的、ではなく、幻覚的なのか。
たとえば文芸批評家のトドロフは〈幻想〉の定義として、これは日常なのか非日常なのかわからなくなってしまうその境界上における語り手の〈ためらい〉だというのだが、『ダンボ』において語り手に〈ためらい〉はない。
それは堂々とみえるものであり、〈ためらい〉というよりも、ショッキングなおののきである。おののく、というのは、じっさい、知覚しているからであり、おびやかされているからである。
象たちは行進し、破裂し、分裂し、増殖し、明滅し、伸縮し、増減する。大事なことは、象たちがいつもこちらをはっきりと〈まなざし〉つつも、みずからが〈みられ〉ていることも意識していることだ。
語り手にも、語り手によってみられている象たちにも、どちらもためらいはない。アルコールというメディアを通してかれらははっきりと知覚されている。
そしてここが肝心なのだが、ピンクの象は、本編の物語構造にはいっさい関与しない。幻想とは、ためらいだとトドロフはいう。ためらいとは境界上のたゆたいである。だからそれは境界の線分をこえる/こえないのドラマをくりひろげることを基本とする物語論的構造ともかかわってくるだろう。しかし、幻覚はちがう。ためらいはない。境界上のたゆたいもない。知覚しているのだ。幻覚は、幻想ではない。
幻覚に到達するためのメディアはなんでもいい。ダンボのようにアルコールでも、上の歌の語り手のように「高熱」でもいい。しかし物語構造とは関係がない。関係がないが、語り手の閾値、位相がそれによって表象される。『ダンボ』の語り手、いやディズニー・アニメーションの語り手の位相には、幻覚/現実の位相がある。そしてそれはアルコールなどの知覚を飛躍させるメディアによって〈ためらい〉もなしにかんたんに到達してしまうものなのだ。カフカの『変身』やカミュの『違法人』のようなものだ。非日常的な異常なことが起こっても、語り手にためらいはないこと。ためらいなしに、記述すること。
幻覚とは、むしろ現実に境界としての「/(位相)」を組み込むたんたんとした手続きのことだ。
幻想とは、自然の法則しか識らぬ者が、超自然的様相をもったできごとに直面して感じるためらいのことなのである。
トドロフ『幻想文学-構造と機能』
(毎日新聞・毎日歌壇2014/4/7掲載 加藤治郎選)
【自(分で)解(いてみる)-ピンクの象は、好きですか?-】
じっさいに風邪をひいて寝込んでいるときに作ったうた。
ディズニーの『ダンボ』に酔っ払ったダンボの頭上をピンクの象たちが行進する有名なシーンが、ある。
非常にサイケデリックかつ幻覚的なシーンで、ディズニーアニメーションのラディカルな感じがよくでている(ちなみにプーさんにもズオウとヒイタチというやはりプーさんの夢のなかで繰り広げられる幻覚的シーンがある)。
なぜ、幻想的、ではなく、幻覚的なのか。
たとえば文芸批評家のトドロフは〈幻想〉の定義として、これは日常なのか非日常なのかわからなくなってしまうその境界上における語り手の〈ためらい〉だというのだが、『ダンボ』において語り手に〈ためらい〉はない。
それは堂々とみえるものであり、〈ためらい〉というよりも、ショッキングなおののきである。おののく、というのは、じっさい、知覚しているからであり、おびやかされているからである。
象たちは行進し、破裂し、分裂し、増殖し、明滅し、伸縮し、増減する。大事なことは、象たちがいつもこちらをはっきりと〈まなざし〉つつも、みずからが〈みられ〉ていることも意識していることだ。
語り手にも、語り手によってみられている象たちにも、どちらもためらいはない。アルコールというメディアを通してかれらははっきりと知覚されている。
そしてここが肝心なのだが、ピンクの象は、本編の物語構造にはいっさい関与しない。幻想とは、ためらいだとトドロフはいう。ためらいとは境界上のたゆたいである。だからそれは境界の線分をこえる/こえないのドラマをくりひろげることを基本とする物語論的構造ともかかわってくるだろう。しかし、幻覚はちがう。ためらいはない。境界上のたゆたいもない。知覚しているのだ。幻覚は、幻想ではない。
幻覚に到達するためのメディアはなんでもいい。ダンボのようにアルコールでも、上の歌の語り手のように「高熱」でもいい。しかし物語構造とは関係がない。関係がないが、語り手の閾値、位相がそれによって表象される。『ダンボ』の語り手、いやディズニー・アニメーションの語り手の位相には、幻覚/現実の位相がある。そしてそれはアルコールなどの知覚を飛躍させるメディアによって〈ためらい〉もなしにかんたんに到達してしまうものなのだ。カフカの『変身』やカミュの『違法人』のようなものだ。非日常的な異常なことが起こっても、語り手にためらいはないこと。ためらいなしに、記述すること。
幻覚とは、むしろ現実に境界としての「/(位相)」を組み込むたんたんとした手続きのことだ。
幻想とは、自然の法則しか識らぬ者が、超自然的様相をもったできごとに直面して感じるためらいのことなのである。
トドロフ『幻想文学-構造と機能』
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