【感想】おやすみと言われた先はひとりです 久保田紺
- 2014/07/30
- 19:52
おやすみと言われた先はひとりです 久保田紺
【おやすみなさいから、始める/始まる。】
久保田さんの句でわたしがとくに好きな句をあげてみたんですが、久保田さんの川柳のテーマのひとつに、〈あいさつの機能不全〉というテーマがあるのではないか、というのがわたしのかんがえです。
〈挨拶〉っていうのは一般的には、日常を円滑に機能し続け・かつ・ひととひとを齟齬なく共有の枠組みでなんらの意味作用を行わずに結びつけるところにその効果があります。つまり、〈変えずに・つなげる〉が挨拶の機能です。
ところがこれに〈あらがう〉のが久保田さんの句です。
「おやすみ」が「おやすみ」にならず「先はひとりです」と〈非日常〉を呼び込んでいます。それは「ひとりじゃない」から「ひとりです」への位相の変化です。そしてその変相によってひととつながるどころか孤絶にたたきこまれるのがこの句です。
「おやすみなさい」が「おやすみなさい」として機能しないどころか状況を反転させ、挨拶によって新しく生成されたシーンを呼び込んでいるのがこの句だとわたしはおもうんですね。
しかしそれは必然的にもうひとつのテーマを呼び込んでいます。ひとはほんとうにあいさつをしているのか、という発話にかんする根本的なテーマです。
挨拶はたしかに状況を存続させ、ひととひととをむすびつける役割をします。しかしほんとうにそのときわたしたちは〈挨拶〉をしているのか、〈挨拶〉と出会うことができているのかという問題です。
むしろ、あいさつがひととひととをむすびつけず、切り離し、非日常的な孤立的状況をつくる。そのときひとははじめてほんとうに〈あいさつ〉ができるのではないか、というテーマです。
川柳は、一般化された言説に孔をみつけることを得手としますが、〈あいさつ〉ほど一般化されてしまった言説はないようにおもいます。しかしだれもが日常的に反復再生産し、身体化していくのもあいさつです。
でも、だからこそ、ひとはみつけなければいけないともおもうのです。じぶんのやりかたで、じぶんしか発話できないあいさつを。たとえその挨拶がさいしょでさいごのあいさつになったとしても。
だからたとえば、「ありがとう」というおそらくは人生でいちばんエネルギーをこめて使うであろう〈挨拶〉を、その反転した状況からとらえなおすこと。
そのことによってもうひとつの「ありがとう」の位相を描き出すこと。そしてその「ありがとう」を「さよなら」と結びつけることによって一度しかいえない一回的で、反復不可能な「ありがとう」の様態をさぐること。
それが、久保田さんの川柳が見出している〈ありふれたことば〉の〈過激さ〉のようにもおもうのです。すなわち、
ありがとうと言ったらさよならになる 久保田紺
【おやすみなさいから、始める/始まる。】
久保田さんの句でわたしがとくに好きな句をあげてみたんですが、久保田さんの川柳のテーマのひとつに、〈あいさつの機能不全〉というテーマがあるのではないか、というのがわたしのかんがえです。
〈挨拶〉っていうのは一般的には、日常を円滑に機能し続け・かつ・ひととひとを齟齬なく共有の枠組みでなんらの意味作用を行わずに結びつけるところにその効果があります。つまり、〈変えずに・つなげる〉が挨拶の機能です。
ところがこれに〈あらがう〉のが久保田さんの句です。
「おやすみ」が「おやすみ」にならず「先はひとりです」と〈非日常〉を呼び込んでいます。それは「ひとりじゃない」から「ひとりです」への位相の変化です。そしてその変相によってひととつながるどころか孤絶にたたきこまれるのがこの句です。
「おやすみなさい」が「おやすみなさい」として機能しないどころか状況を反転させ、挨拶によって新しく生成されたシーンを呼び込んでいるのがこの句だとわたしはおもうんですね。
しかしそれは必然的にもうひとつのテーマを呼び込んでいます。ひとはほんとうにあいさつをしているのか、という発話にかんする根本的なテーマです。
挨拶はたしかに状況を存続させ、ひととひととをむすびつける役割をします。しかしほんとうにそのときわたしたちは〈挨拶〉をしているのか、〈挨拶〉と出会うことができているのかという問題です。
むしろ、あいさつがひととひととをむすびつけず、切り離し、非日常的な孤立的状況をつくる。そのときひとははじめてほんとうに〈あいさつ〉ができるのではないか、というテーマです。
川柳は、一般化された言説に孔をみつけることを得手としますが、〈あいさつ〉ほど一般化されてしまった言説はないようにおもいます。しかしだれもが日常的に反復再生産し、身体化していくのもあいさつです。
でも、だからこそ、ひとはみつけなければいけないともおもうのです。じぶんのやりかたで、じぶんしか発話できないあいさつを。たとえその挨拶がさいしょでさいごのあいさつになったとしても。
だからたとえば、「ありがとう」というおそらくは人生でいちばんエネルギーをこめて使うであろう〈挨拶〉を、その反転した状況からとらえなおすこと。
そのことによってもうひとつの「ありがとう」の位相を描き出すこと。そしてその「ありがとう」を「さよなら」と結びつけることによって一度しかいえない一回的で、反復不可能な「ありがとう」の様態をさぐること。
それが、久保田さんの川柳が見出している〈ありふれたことば〉の〈過激さ〉のようにもおもうのです。すなわち、
ありがとうと言ったらさよならになる 久保田紺
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