すやすやするあとがき
- 2014/07/31
- 01:26
串田和美さんが、どんなにこわいひとでも、どんなに暴力的なひとでも、どんなに危険なひとでも、ちゃんとねむってるときがあるんだとおもうとすごくふしぎなきもちになる、といってて、たしかにどんなにかなしみにくれているひとでも、どんなに嫉妬にくるってるひとでも、どんなに怒っているひとでも、どんなに暴れているひとでも、なにもしなくても、いずれは、ねむるのだ。すやすや、と。
たとえば、どんなに愛し合っていても、おやすみ、のその先は〈かならず〉ひとりである。
ゆめのなかであおう、とおもっても、そうそうあえるものでもない。
つまり、わたしたちは、うまれたその日から、まいばん、孤独を経験しているということになる。うまれたその日からしぬその日まで夜な夜な、きちんと、孤独を、経験するということ。まいばん、まいばん、訪れる〈ひとり〉という現象。
わたしたちは、ねむるといえば、いつも、ゆめを連想し、そうしてゆめといえば、〈わたし〉がひろがっていくようなファンタジックな風景を連想しがちだけれども、しかし、むしろ、ねむるという行為は、〈ひとり〉を経験するものとして、ある。
そしてその〈ひとり〉はラジオ体操よりも律儀にまいばん、まいばん、おとずれる。
わたしたちはかなり律儀に、健全に、すやすやと、ときに大胆な体位で、〈ひとり〉を遂行していく。あるときはひとりで、あるときはだれかのまどなりで、あるときはソファーで、あるときは雲のうえで、あるときは時速270kmで、わたしたちは〈ひとり〉をこなしていく。
〈ひとり〉には、どんな経験値も、いらない。生まれたときから、だれもがすやすやとしたプロだ。むにゃむにゃとした熟練だ。
わたしも、あと数十分で、そのむにゃむにゃとした熟練の〈ひとり〉になる(はずだ)。
夜のふかいそこで、みんな、素晴らしい〈ひとり〉のプロフェッショナルになる。素晴らしいむにゃむにゃを唱えながら。素晴らしい公務員のようにきちんと毎夜〈ひとり〉をこなしながら。
ねむる、ということ。
おやすみと言われた先はひとりです 久保田紺
たとえば、どんなに愛し合っていても、おやすみ、のその先は〈かならず〉ひとりである。
ゆめのなかであおう、とおもっても、そうそうあえるものでもない。
つまり、わたしたちは、うまれたその日から、まいばん、孤独を経験しているということになる。うまれたその日からしぬその日まで夜な夜な、きちんと、孤独を、経験するということ。まいばん、まいばん、訪れる〈ひとり〉という現象。
わたしたちは、ねむるといえば、いつも、ゆめを連想し、そうしてゆめといえば、〈わたし〉がひろがっていくようなファンタジックな風景を連想しがちだけれども、しかし、むしろ、ねむるという行為は、〈ひとり〉を経験するものとして、ある。
そしてその〈ひとり〉はラジオ体操よりも律儀にまいばん、まいばん、おとずれる。
わたしたちはかなり律儀に、健全に、すやすやと、ときに大胆な体位で、〈ひとり〉を遂行していく。あるときはひとりで、あるときはだれかのまどなりで、あるときはソファーで、あるときは雲のうえで、あるときは時速270kmで、わたしたちは〈ひとり〉をこなしていく。
〈ひとり〉には、どんな経験値も、いらない。生まれたときから、だれもがすやすやとしたプロだ。むにゃむにゃとした熟練だ。
わたしも、あと数十分で、そのむにゃむにゃとした熟練の〈ひとり〉になる(はずだ)。
夜のふかいそこで、みんな、素晴らしい〈ひとり〉のプロフェッショナルになる。素晴らしいむにゃむにゃを唱えながら。素晴らしい公務員のようにきちんと毎夜〈ひとり〉をこなしながら。
ねむる、ということ。
おやすみと言われた先はひとりです 久保田紺
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