【感想】 愛して た この駅のコージーコーナー 佐藤文香
- 2014/07/31
- 01:50
愛して た この駅のコージーコーナー 佐藤文香「あたらしい音楽を教えて」『俳句雑誌クプラス第1号』
【アイと、アキと】
短詩型における〈アキ〉についてときどきかんがえていて、上の佐藤さんの句は、二字アキというけっこう珍しい句なのではないかとおもいます(句の頭も一字アキです)。
ちなみに、わたしがすぐに思いつく二字アキの歌というと永井さんの次のうたが思いつきます。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
で、ですね。短詩型において、とくに短歌では一字アキというのはよくみられます。
たとえば。
教室でクラリネットを吹いていた頃のあなたが見たい と笑う 加藤千恵
この加藤さんの歌における一字アキをかんがえてみるならば、〈屈託した語り手の意識〉が一字アキにあらわれているのではないかとおもうんですね。一字アキならなめらかにセンテンスが成立するところを一字アキすることによって語り手の意識としてためらいつまずいている。つまり、「吹いていた頃のあなたが見たい」といいながらも、もしかしたら同時に語り手は「吹いていた頃のあなたが見たい」と思っていないのかもしれない。
一字アキによって語り手の意識が多層化するのが一字アキのひとつの機能としてあるのではないかとおもうんですね。
ただですね、一字アキは語り手の意識の問題だとおもうんですが、これが二字アキになった場合。
二字アキだと語り手の意識の屈折にしてはわたしは〈長すぎる〉とおもうんです。
ですから、二字アキっていうのはこれは短歌を声に出して音として聴覚映像として読むときのもはや〈アキ〉などではなくて、むしろ〈視覚〉の問題になってくるのではないか。つまり、実際短歌を声にだして読むときの〈間〉ではなくて、むしろそれがテキストで眼にしたときに浮かび上がってくる〈白さ〉としての〈間〉。もっと一般に流通していることばでいえば、二字アキとは〈風景〉なんじゃないかというのがわたしのかんがえです。
たとえば佐藤さんの「愛して た この駅のコージーコーナー」の句。
このとき語り手は、なんらかの屈託がある「この駅のコージーコーナー」をみているとともに、空白としてのなんにもない白抜きの〈風景〉をみているのではないか。そしてその〈なんにもない風景〉としての等価として「この駅のコージーコーナー」が浮かび上がっているのではないか。なぜなら「愛して た」という時制が示しているように〈愛する〉「この駅のコージーコーナー」は喪失としてもその〈風景〉に浮かび上がっているはずだから。さらにさっきの一字アキを応用してかんがえるならば、「愛して た」という語り手の愛への意識が「愛してた/愛してたかもしれない/愛してなかった」と多層化することによって「この駅のコージーコーナー」は二字アキの白抜きの風景としか表象できないようになっていたから。
ちょっと冒険的読みに過ぎるかもしれないことをおそれつつも(この句はいろんな分節の仕方ができるので読み手によって〈愛〉のありかた・対象が変わる句だとおもう)、二字アキとはなんだろうと自分なりにかんがえてみるとそういった〈間〉よりも〈風景〉としての二字アキが浮かび上がってくるようにもおもうんです。
たとえばさきほどの永井さんの二字アキならふたりで空をみあげている、ことばにできない〈夜空の風景〉として二字アキはあるということです。
空白 の冒険をしてみ ようということで、すこし 短詩型における 二字アキについてかんがえ てみま した。おや す み なさ い 。
マフラーの匂ひの会話してをりぬ 佐藤文香
【アイと、アキと】
短詩型における〈アキ〉についてときどきかんがえていて、上の佐藤さんの句は、二字アキというけっこう珍しい句なのではないかとおもいます(句の頭も一字アキです)。
ちなみに、わたしがすぐに思いつく二字アキの歌というと永井さんの次のうたが思いつきます。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね 永井祐
で、ですね。短詩型において、とくに短歌では一字アキというのはよくみられます。
たとえば。
教室でクラリネットを吹いていた頃のあなたが見たい と笑う 加藤千恵
この加藤さんの歌における一字アキをかんがえてみるならば、〈屈託した語り手の意識〉が一字アキにあらわれているのではないかとおもうんですね。一字アキならなめらかにセンテンスが成立するところを一字アキすることによって語り手の意識としてためらいつまずいている。つまり、「吹いていた頃のあなたが見たい」といいながらも、もしかしたら同時に語り手は「吹いていた頃のあなたが見たい」と思っていないのかもしれない。
一字アキによって語り手の意識が多層化するのが一字アキのひとつの機能としてあるのではないかとおもうんですね。
ただですね、一字アキは語り手の意識の問題だとおもうんですが、これが二字アキになった場合。
二字アキだと語り手の意識の屈折にしてはわたしは〈長すぎる〉とおもうんです。
ですから、二字アキっていうのはこれは短歌を声に出して音として聴覚映像として読むときのもはや〈アキ〉などではなくて、むしろ〈視覚〉の問題になってくるのではないか。つまり、実際短歌を声にだして読むときの〈間〉ではなくて、むしろそれがテキストで眼にしたときに浮かび上がってくる〈白さ〉としての〈間〉。もっと一般に流通していることばでいえば、二字アキとは〈風景〉なんじゃないかというのがわたしのかんがえです。
たとえば佐藤さんの「愛して た この駅のコージーコーナー」の句。
このとき語り手は、なんらかの屈託がある「この駅のコージーコーナー」をみているとともに、空白としてのなんにもない白抜きの〈風景〉をみているのではないか。そしてその〈なんにもない風景〉としての等価として「この駅のコージーコーナー」が浮かび上がっているのではないか。なぜなら「愛して た」という時制が示しているように〈愛する〉「この駅のコージーコーナー」は喪失としてもその〈風景〉に浮かび上がっているはずだから。さらにさっきの一字アキを応用してかんがえるならば、「愛して た」という語り手の愛への意識が「愛してた/愛してたかもしれない/愛してなかった」と多層化することによって「この駅のコージーコーナー」は二字アキの白抜きの風景としか表象できないようになっていたから。
ちょっと冒険的読みに過ぎるかもしれないことをおそれつつも(この句はいろんな分節の仕方ができるので読み手によって〈愛〉のありかた・対象が変わる句だとおもう)、二字アキとはなんだろうと自分なりにかんがえてみるとそういった〈間〉よりも〈風景〉としての二字アキが浮かび上がってくるようにもおもうんです。
たとえばさきほどの永井さんの二字アキならふたりで空をみあげている、ことばにできない〈夜空の風景〉として二字アキはあるということです。
空白 の冒険をしてみ ようということで、すこし 短詩型における 二字アキについてかんがえ てみま した。おや す み なさ い 。
マフラーの匂ひの会話してをりぬ 佐藤文香
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