【お知らせ】「痙攣する俳句」『We』5号、2018年3月
- 2018/05/12
- 09:52
短歌・俳句誌『We』5号、2018年3月に加藤知子さんの句集『櫨の実の混沌より始む』評「痙攣する俳句」を書きました。
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痙攣する俳句-加藤知子句集『櫨の実の混沌より始む』 柳本々々
知子さんは句集の「あとがきにかえて」において、「どんな俳句を書きたいか」の例として金子兜太さんの
華麗な墓原女陰あらわに村眠り 金子兜太
の句をあげている。
自句自解で「性を暗く、死者を華やかに」、「逆に示すことによって、陰鬱を示」したというが、蕭白に近い書き方だと感じた。性と死に纏わるダイナミックな対比、諧謔やシュールを思う。
大いなる日常のなかにある大いなる非日常を詠まんとする、大いなる作意があるように思う。俳句が詩の文学であるならば、自然現象や人事をそのまま写生・報告したのでは、およそ作品たり得ず、そこには何らかの作意があらねばならない。
(加藤知子「あとがきにかえて」)
知子さんは兜太さんの句に「大いなる日常」と「大いなる非日常」の〈出会い〉を見出している。そしてそのような〈出会い〉の作意こそが、「俳句」なのだと言う。「そのまま写生・報告したのでは」だめなんだと。
ここでわたしが大事だと思うのが、この兜太さんの句にある「大いなる日常」と「大いなる非日常」として〈出会ってしまう性〉のありようである。この句では、「墓原」と「女陰」が出会っている。
この出会い方は、知子さんの句ではこんなふうに展開されるだろう。
月下美人咲く産道をひろげつつ
反戦な子宮から地球初明り
太腿の内に汗掻く憂国忌
「月下美人」と出会う「産道」。「子宮」と出会う「初明り」。「太腿の内」と出会う「憂国忌」。兜太さんの〈出会ってしまう性〉のありようが、知子さんの俳句に流れ込んでいる。
でもここでちょっと注意したいのが、兜太さんの「女陰あらわに村眠り」という静的(スタティック)な性の様相とは違い、知子さんの句の「ひろげ《つつ》」「反戦な《子宮》」「太腿の内に汗《掻く》」という運動の様相である。知子さんの句では性が運動し続けており動的(ダイナミック)なのだ。産道はひろがり、子宮はいきづき、太腿の内側に汗がしたたりつづける。
そしてもっと言えば、これはもはや《眼でカヴァーできない運動》だということだ。考えてみてほしい。「産道」を、「子宮」を、「太腿の内」を、眼で見て「写生・報告」できるだろうか。これらは〈身体の眼〉のようなもの、皮膚感覚の眼を通じて表現されているのだ。これは、〈眼がおいつかなかった出会い〉であり、〈眼が追いつかなかった性〉のありようなのだ。痙攣しつづける俳句のようなもの。眼で微分的にもはやとらえようのない痙攣という運動。
知子さんの句集では跋文を竹本仰さんが書いている。竹本さんも「太腿」の句を取り上げ、
この(三島由紀夫の)事件を或る男の願望、大仰な劇化だと感じて、太腿に汗かく程の不可解として関わったという表明である。何と不可解な出産の夢だったことだろうと。
と、三島由紀夫の生まれ得なかった〈難産〉としてこの句をとらえている。わたしはこの句集にとってこの三島の句はとても象徴的な句になるのではないかと考えている。三島由紀夫の自決を描いたこんな短歌がある。
唐突にワープロ画面いつぱいを三島由紀夫の首が占拠す 仙波龍英
ここで注意したいのが、「三島由紀夫の首」と〈ヘッド〉で〈三島由紀夫の自決〉が歌われている点である。おそらく三島由紀夫の自決を象徴するのは、「三島由紀夫の(切り落とされた)首」のはずで、今もたぶん、そうなのだ。わたしたちは三島由紀夫を〈ふともも〉から考えたりはしない。夢が叶えられなかった男の、思想から、顔から、首から、かんがえる。ところが知子さんはそこに「太腿」を持ち込み、三島由紀夫をずらした。「三島由紀夫の首」というもはや不動の、〈出会いようのない静けさ〉をズラし、「太腿の内に汗掻く」と〈下〉から〈動的〉にとらえかえした。この点こそが、知子さんの俳句らしさであり、この句集の生/性のダイナミズムではないかと思うのだ。
加藤知子という俳人はこの句集で、静かな眼がとらえきれない痙攣する性/生をとらえようとしている。それは、「写生」というよりは、「写・性」と言ってもいいかもしれないし、蠢きつづける生のありようをそのままとらえようとする、生を写しとる運動としての「写・生」と言ってもいいかもしれない。
秋暑し小股にはさむ大言海 加藤知子
兜太さんの俳句にあらわれた「女陰」のようにそもそも俳句には〈下〉から世界を考えようとするまなざしの水脈がある。たとえばこんな俳句を思い出してみてもいい。
陰(ほと)もあらわに病む母見るも別れか 荻原井泉水
ただし、兜太さんも井泉水も、「女陰」や「陰」をじっと〈みつめる主体〉であったのに対して、知子さんは〈みつめる主体〉ではないことが新しさである。なぜなら、「大言海」という国語辞書を「小股にはさ」んじゃうのだから。これは感触や感覚の問題であり、あえて〈眼を閉じる〉行為でもあり、ことばを「股」で感じる行為でもある。そしてもっと言えば、まなざされ続けた女性主体からの新しいとらえ返しとも言えるかもしれない。ふとももからの更新。
ことばを、俳句を、あえて〈下〉から考えること。ふともものうちがわにことばをおいてみること。それが知子さんが兜太さんから引継ぎ、みずから新しく世界をとらえ返そうとするまなざしなのではないか。
最後にわたしが好きな知子さんの〈眼が追いつかない生/性〉の句をあげたい。春を〈下〉からとらえかえした。
迫りくる尿意のひとつ春はあけぼの 加藤知子
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