【感想】徳永政二さんと藤田めぐみさんの〈人間・椅子〉
- 2014/08/02
- 10:42
いま君と椅子のかたちになっている 徳永政二
待ち受ける途中で椅子になっている 藤田めぐみ
【椅子になる語り手】
川柳的主体の特徴をひとつ考えてみたときに、その変幻自在な主体性、主体のメタモルフォーゼが特色になってくるのではないかとおもうんです。
現代川柳は基本的にそのラインをとりませんが、よく川柳は機知やユーモア、笑いを盛り込むといわれています。サラリーマン川柳やシルバー川柳、オタク川柳なんかもそうです。
オタク川柳に〈オタク〉独特の笑い方をネット表現によって句を構成した、
デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ
がありますが(あえて〈翻訳〉するなら「ぶふふふふふふふふふふふふふふ」か)、これは語り手がネットによって表象されている〈オタク(の笑い)〉にメタモルフォーゼすることによって成立しているともいえます。ここで問われているのは〈おまえはほんとうにこんな笑い方をしているおまえなのか〉の〈デアル主体〉ではなくて、〈こういう笑い方をしているオタクになっている〉という〈ナル主体〉です。
ですから、川柳においては基本的に、それが言語表現を追究している現代川柳でも、世間一般に流通しているユーモア川柳でも、その川柳主体がなにか別の主体に〈ナル〉ことによって成立しているのではないかと思うんですね。
で、うえの徳永さんと藤田さんの川柳なんですが、この句も語り手が「椅子」になってしまうというメタモルフォーゼの主体です。
ただここでこの二句が重要なのは、「椅子」という隠喩を持ち出していることだとおもいます。江戸川乱歩の「人間椅子」を想い出してもらえばわかるように「椅子」とは、語り手が〈椅子主体化〉したとたんに座られる〈椅子客体〉になってしまうところが大事ではないかとおもうんですね。椅子というのはそもそもが座られる矯めにつくられているものですから、句にも「いま君と」や「待ち受ける」と上五がはじまるように他者との関わり合いにおいて変転する主体が〈椅子的主体〉です。椅子的主体は、他者とかかわりあうことによって、はじめて椅子化でき、椅子的主体として成就することができます。しかし、その主体が成就される瞬間こそがまさに完全に客体として座られている脱主体化の瞬間でもあるのです。
わたしはこの椅子的主体に、川柳主体の大事な部分が秘められているようにおもいます。
他者との関わり合いにおいてメタモルフォーゼしたうえで語り起こしはじめる主体、しかしそうしたメタモルフォーゼ主体が駆動された瞬間に主体そのものが解体されてしまうような脱―椅子的主体。
もしかしたらそうした主体の反射運動のなかに、川柳主体が往還する運動態として現象しているのではないかとおもったりもするのです。
私は、彼女が私の上に身を投げたときには、できるだけフーワリと優しく受けるように心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分からぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女のからだの位置を変えるようにいたしました。そして、彼女が、ウトウトと居眠りをはじめるような場合には、私は、ごくごく幽かに膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、婦人は、何となく私の椅子を愛しているように思われます。彼女は、ちょうど嬰児が母親の懐に抱かれるときのような、または、乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、からだを動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。
江戸川乱歩『人間椅子』
待ち受ける途中で椅子になっている 藤田めぐみ
【椅子になる語り手】
川柳的主体の特徴をひとつ考えてみたときに、その変幻自在な主体性、主体のメタモルフォーゼが特色になってくるのではないかとおもうんです。
現代川柳は基本的にそのラインをとりませんが、よく川柳は機知やユーモア、笑いを盛り込むといわれています。サラリーマン川柳やシルバー川柳、オタク川柳なんかもそうです。
オタク川柳に〈オタク〉独特の笑い方をネット表現によって句を構成した、
デュフフコポォ オウフドプフォ フォカヌポウ
がありますが(あえて〈翻訳〉するなら「ぶふふふふふふふふふふふふふふ」か)、これは語り手がネットによって表象されている〈オタク(の笑い)〉にメタモルフォーゼすることによって成立しているともいえます。ここで問われているのは〈おまえはほんとうにこんな笑い方をしているおまえなのか〉の〈デアル主体〉ではなくて、〈こういう笑い方をしているオタクになっている〉という〈ナル主体〉です。
ですから、川柳においては基本的に、それが言語表現を追究している現代川柳でも、世間一般に流通しているユーモア川柳でも、その川柳主体がなにか別の主体に〈ナル〉ことによって成立しているのではないかと思うんですね。
で、うえの徳永さんと藤田さんの川柳なんですが、この句も語り手が「椅子」になってしまうというメタモルフォーゼの主体です。
ただここでこの二句が重要なのは、「椅子」という隠喩を持ち出していることだとおもいます。江戸川乱歩の「人間椅子」を想い出してもらえばわかるように「椅子」とは、語り手が〈椅子主体化〉したとたんに座られる〈椅子客体〉になってしまうところが大事ではないかとおもうんですね。椅子というのはそもそもが座られる矯めにつくられているものですから、句にも「いま君と」や「待ち受ける」と上五がはじまるように他者との関わり合いにおいて変転する主体が〈椅子的主体〉です。椅子的主体は、他者とかかわりあうことによって、はじめて椅子化でき、椅子的主体として成就することができます。しかし、その主体が成就される瞬間こそがまさに完全に客体として座られている脱主体化の瞬間でもあるのです。
わたしはこの椅子的主体に、川柳主体の大事な部分が秘められているようにおもいます。
他者との関わり合いにおいてメタモルフォーゼしたうえで語り起こしはじめる主体、しかしそうしたメタモルフォーゼ主体が駆動された瞬間に主体そのものが解体されてしまうような脱―椅子的主体。
もしかしたらそうした主体の反射運動のなかに、川柳主体が往還する運動態として現象しているのではないかとおもったりもするのです。
私は、彼女が私の上に身を投げたときには、できるだけフーワリと優しく受けるように心掛けました。彼女が私の上で疲れた時分には、分からぬ程にソロソロと膝を動かして、彼女のからだの位置を変えるようにいたしました。そして、彼女が、ウトウトと居眠りをはじめるような場合には、私は、ごくごく幽かに膝をゆすって、揺籃の役目を勤めたことでございます。
その心遣りが報いられたのか、それとも、単に私の気の迷いか、近頃では、婦人は、何となく私の椅子を愛しているように思われます。彼女は、ちょうど嬰児が母親の懐に抱かれるときのような、または、乙女が恋人の抱擁に応じるときのような、甘い優しさをもって私の椅子に身を沈めます。そして、私の膝の上で、からだを動かす様子までが、さも懐かしげに見えるのでございます。
江戸川乱歩『人間椅子』
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