【感想】縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺 関悦史
- 2014/08/02
- 15:59
縛り棄てなる『ノルウェイの森』田に白鷺 関悦史
ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ 関悦史
※ 今回の文章ではいちばん最後に村上春樹『ノルウェイの森』の最後のシーンを引用していますので、未読かつ最後の展開を楽しみにされている方はお気をつけください。
【ノルウェイの城】
関さんの文学の〈外部〉を導入する俳句がとても面白いと思っているんですが、たとえば村上春樹『ノルウェイの森』のひとつのテーマが、〈語れば語るほど《どこ》にいるのかわからなくなっていく《僕》の所在〉というテーマの変奏だったとすれば、このノルウェイ俳句の上七の「縛り棄てなる」という〈緊縛〉がとても効いているとおもうんですね。
〈縛られ〉ていることと〈棄てられ〉ていることの二重の〈読むことの可能性〉の封印。しかし、そうしてマテリアルな〈読むこと〉を固定化することによって逆にノルウェイ的な〈都市の森〉を徘徊しつづける主体とはまったく逆の主体が浮かび上がっている。
また『ノルウェイの森』は〈電話〉という装置で主体が棚上げにされて終わっている点で〈都市的〉だとおもうんですが(つまり、電話のパロールに支配されることで〈場所性〉は偏在化し、ことばと場所がべったり付着しないようになっている)、ところがそうしたことばと場所性が〈電話〉によって乖離し、いついかなる場所からも同じような非-場所的な意味としてのことばをもつ『ノルウェイの森』が「田」という限定されたローカルな場に固定されて廃棄されている点。その「田」というローカリティなしにこの句がもはや成立しえない状況に語り手が追い込んでいる点。それも『ノルウェイの森』をうらがえしていかしたおもしろい〈風景〉を浮かび上がらせているとおもいます。
カフカの『城』の句も、『城』は未完であり、編集形態も定まっておらず、つねに〈途上〉としてしか発現されない、それこそ〈城〉にたどりつくことのできないことが〈城〉となっているようなテクストですが、そのカフカのテクストに「ネット社会」というやはり〈途上〉であることがアイデンティティとなるしかない言説空間を導入することによって、〈未完としての完遂〉、つねに未完であることが逆にテクストの限界として完遂され、享受者によって更新される欲動を指し示していくような、そういった「閉ぢ込め」られた意味空間の状態を、おさえこむことのできない意味の不規則な漏電状態として描いているようにもおもいます。
短詩型は文学たりうるか、といったテーマではなく、短詩型は〈どう〉文学と対峙し、逸らし、演じるのか、といった、短詩型と文学の距離感を主題にすることによって逆に短詩型の文学性を問うているようにもわたしはおもうのです。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかも君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。
僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていた。
それからやがて緑が口を開いた。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。
僕は今どこにいるのだ?
でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。
いったいここはどこなんだ?
僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
村上春樹『ノルウェイの森』
ネット社会をも閉ぢ込めて『城』未完なれ 関悦史
※ 今回の文章ではいちばん最後に村上春樹『ノルウェイの森』の最後のシーンを引用していますので、未読かつ最後の展開を楽しみにされている方はお気をつけください。
【ノルウェイの城】
関さんの文学の〈外部〉を導入する俳句がとても面白いと思っているんですが、たとえば村上春樹『ノルウェイの森』のひとつのテーマが、〈語れば語るほど《どこ》にいるのかわからなくなっていく《僕》の所在〉というテーマの変奏だったとすれば、このノルウェイ俳句の上七の「縛り棄てなる」という〈緊縛〉がとても効いているとおもうんですね。
〈縛られ〉ていることと〈棄てられ〉ていることの二重の〈読むことの可能性〉の封印。しかし、そうしてマテリアルな〈読むこと〉を固定化することによって逆にノルウェイ的な〈都市の森〉を徘徊しつづける主体とはまったく逆の主体が浮かび上がっている。
また『ノルウェイの森』は〈電話〉という装置で主体が棚上げにされて終わっている点で〈都市的〉だとおもうんですが(つまり、電話のパロールに支配されることで〈場所性〉は偏在化し、ことばと場所がべったり付着しないようになっている)、ところがそうしたことばと場所性が〈電話〉によって乖離し、いついかなる場所からも同じような非-場所的な意味としてのことばをもつ『ノルウェイの森』が「田」という限定されたローカルな場に固定されて廃棄されている点。その「田」というローカリティなしにこの句がもはや成立しえない状況に語り手が追い込んでいる点。それも『ノルウェイの森』をうらがえしていかしたおもしろい〈風景〉を浮かび上がらせているとおもいます。
カフカの『城』の句も、『城』は未完であり、編集形態も定まっておらず、つねに〈途上〉としてしか発現されない、それこそ〈城〉にたどりつくことのできないことが〈城〉となっているようなテクストですが、そのカフカのテクストに「ネット社会」というやはり〈途上〉であることがアイデンティティとなるしかない言説空間を導入することによって、〈未完としての完遂〉、つねに未完であることが逆にテクストの限界として完遂され、享受者によって更新される欲動を指し示していくような、そういった「閉ぢ込め」られた意味空間の状態を、おさえこむことのできない意味の不規則な漏電状態として描いているようにもおもいます。
短詩型は文学たりうるか、といったテーマではなく、短詩型は〈どう〉文学と対峙し、逸らし、演じるのか、といった、短詩型と文学の距離感を主題にすることによって逆に短詩型の文学性を問うているようにもわたしはおもうのです。
僕は緑に電話をかけ、君とどうしても話がしたいんだ。話すことがいっぱいある。話さなくちゃいけないことがいっぱいある。世界中に君以外に求めるものは何もない。君と会って話したい。何もかも君と二人で最初から始めたい、と言った。
緑は長いあいだ電話の向うで黙っていた。まるで世界中の細かい雨が世界中の芝生に降っているようなそんな沈黙がつづいた。
僕はそのあいだガラス窓にずっと額を押しつけて目を閉じていた。
それからやがて緑が口を開いた。
「あなた、今どこにいるの?」と彼女は静かな声で言った。
僕は今どこにいるのだ?
僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。
僕は今どこにいるのだ?
でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。
いったいここはどこなんだ?
僕の目にうつるのはいずこへともなく歩きすぎていく無数の人々の姿だけだった。
僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた。
村上春樹『ノルウェイの森』
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