【感想】秋の暮ともかく終点まで行こう 池田澄子
- 2014/04/09
- 14:46
秋の暮ともかく終点まで行こう 池田澄子
「終点まで」『角川俳句』2012/10
【池田澄子-終点としての始点-】
定型詩とは、なんなのか、ということを考えたときにひとついえることは、それは確実な〈終わり〉がくる、っていうことだとおもうんです。
たとえば、文章で「秋の暮ともかく終点まで行こう」って書いてあったら、これは〈はじまり〉であり、読み手もこの一文を読んだ瞬間につぎの位相をまちかまえるわけです。
ところが、定型詩は、ちがう。すぐ、おわりがやってくる。だから、読み手は組み立てようとはしない。それよりも訪れてしまった〈おわり〉からかんがえていくはずです。
この句は「ともかく終点まで行こう」と語り手がいっているわけですが、その瞬間におわり=終点がやってくる。だから語り手の語れる時間としては「行こう」と発話したその瞬間に〈終点〉にたどりついてしまっているわけです。それが俳句としての定型の運命だから。
でも、その〈おわり〉からはじまる・つづいていかざるをえないこともこの句はどうじに自己言及的に語っているとおもうんです。
この句には「暮」と「終点」というふたつの〈おわり〉が配置されています。「暮」はいま・ここにある〈おわり〉である。「終点」はおそらくさきにあるであろう、でもたどりつけるかどうかわはわからない〈おわり〉です。だから、ちがう種類の〈おわり〉がうめこまれている。いまある〈おわり〉を「ともかく」でそらしつつ、もう一段階うえの〈おわり〉を目指すのがこの句のダイナミズムだとおもうんです。しかし、それをさせる枠組みとして〈おわり〉をすぐにむかえる定型としての俳句がある。
だから三重の〈おわり〉をかいくぐって「行こう」がつきやぶろうとしている、そういった〈おわり〉に執着しつつも・しかしその〈おわり〉をぬけようとしている句なんじゃないかとおもいます。
で、もしかしたら池田澄子さんの俳句の特徴というのはそういう〈抜け〉感におもしろさがあるのではないかとおもいます。「おわらせないよ」感に。
たとえば、池田澄子さんの句に、
恋文の起承転転さくらんぼ
という句がありますが、まさにこの「結」の不在=「起承転転」を実践している俳人が池田澄子さんなのではないかとおもうのです。
「終点まで」『角川俳句』2012/10
【池田澄子-終点としての始点-】
定型詩とは、なんなのか、ということを考えたときにひとついえることは、それは確実な〈終わり〉がくる、っていうことだとおもうんです。
たとえば、文章で「秋の暮ともかく終点まで行こう」って書いてあったら、これは〈はじまり〉であり、読み手もこの一文を読んだ瞬間につぎの位相をまちかまえるわけです。
ところが、定型詩は、ちがう。すぐ、おわりがやってくる。だから、読み手は組み立てようとはしない。それよりも訪れてしまった〈おわり〉からかんがえていくはずです。
この句は「ともかく終点まで行こう」と語り手がいっているわけですが、その瞬間におわり=終点がやってくる。だから語り手の語れる時間としては「行こう」と発話したその瞬間に〈終点〉にたどりついてしまっているわけです。それが俳句としての定型の運命だから。
でも、その〈おわり〉からはじまる・つづいていかざるをえないこともこの句はどうじに自己言及的に語っているとおもうんです。
この句には「暮」と「終点」というふたつの〈おわり〉が配置されています。「暮」はいま・ここにある〈おわり〉である。「終点」はおそらくさきにあるであろう、でもたどりつけるかどうかわはわからない〈おわり〉です。だから、ちがう種類の〈おわり〉がうめこまれている。いまある〈おわり〉を「ともかく」でそらしつつ、もう一段階うえの〈おわり〉を目指すのがこの句のダイナミズムだとおもうんです。しかし、それをさせる枠組みとして〈おわり〉をすぐにむかえる定型としての俳句がある。
だから三重の〈おわり〉をかいくぐって「行こう」がつきやぶろうとしている、そういった〈おわり〉に執着しつつも・しかしその〈おわり〉をぬけようとしている句なんじゃないかとおもいます。
で、もしかしたら池田澄子さんの俳句の特徴というのはそういう〈抜け〉感におもしろさがあるのではないかとおもいます。「おわらせないよ」感に。
たとえば、池田澄子さんの句に、
恋文の起承転転さくらんぼ
という句がありますが、まさにこの「結」の不在=「起承転転」を実践している俳人が池田澄子さんなのではないかとおもうのです。
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