【お知らせ】「脱衣場を抜けるアリス なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句」『週刊俳句』第380号
- 2014/08/03
- 01:35
『週刊俳句 Haiku Weekly第380号』にて「脱衣場を抜けるアリス なかはられいこ句集『脱衣場のアリス』の二句」という文章を載せていただきました。ありがとうございました!
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
なかはられいこさんの句集と向き合うことは自分にとっての〈現代川柳〉とはなんであるかを言語化していく作業にも近いようにも思うんですが、それはたぶんなかはらさんが句集のなかでさまざまな川柳の位相をこころみているからではないかとおもうんですね。
だからなかはらさんの句集を読んだひとがそのひとなりの共鳴装置でもって、実は川柳ってこんなふうな言語表現としての奥行きがあるんだということを実感していく、そういう句集としてあったのではないかとおもうんです。
『脱衣場のアリス』はとてもポップな表紙でそれだけでそれまでもっていた川柳観が崩れるようなメディア伝達的な書物でもあったと思うんですが(それはたとえば、西原天気さんの句集『けむり』や高山れおなさんの『俳諧曽我』といったやはりメディアに自覚的な書物にもいえることだと思うんですが)、そうしたまずはメディアで読者にジャンルの再構築を《それとなく》うながす、でもそれだけじゃなくて(西原さんや高山さんの句集がメディアと連動してテクストもまたジャンルの再定義をうながすような句集であったように)『脱衣場のアリス』の一句一句もまた、読み手に川柳の体系に自分自身で向き直るように促しているようにも思えたんです。
わたしはときどきそのジャンル内において読み手を自己言及的にうながし、ジャンルを再考させるような句集があるのではないかと思っています。脱ー句集的、ともいえるような〈句集〉が。
また、瀧村小奈生さんがご自身のブログにおいて、「ねじまき句会に参加するようになって、川柳を書き始めたものの、『川柳ってなに?』という問いはふくらむばかりだった。そのころ、この対談を何度も読み返した(「曲がりたい泣きたい中央分離帯 なかはられいこ」『そらいろの空』)」といっておられたんですが、このなかはらさんの句集には「なかはられいこと川柳の現在」という石田柊馬さん、倉本朝世さん、穂村弘さん、荻原裕幸さんによる座談会が40ページとかなりの分量で掲載されていて、しかも穂村さんや荻原さんが座談会に川柳の〈外部〉として参加することでかなり〈川柳〉そのものについて考えさせられる座談会になっています。ですから、瀧村さんが述べられたように〈現在〉においても川柳の問題系をつかむのにとても適した座談会になっているんじゃないかと思うんですね(荻原裕幸さんがコーディネートされていると思うんですが、コーディネート=プロデュースから読み直す〈短歌史〉のようなものがあってもいいのではないかとときどき思います。ときどき、短歌の磁場を形成し、少しずつ変えてきたのはコーディネーターやプロデューサー、もしくは選者だったのではないかと思うことがあるんです。ですがそういった〈仕事〉は分有された記憶には残りやすいが体系的な記録としては残りにくい。そういったところがときどき気になります。テクストをむしろつないできた〈場〉のちからが)。
ジャンルはつねに〈外部〉にさらされつづけつつも、問い直されていくものではあると思うんですが、そのときに気をつけなければいけないとおもうのは、短歌・俳句・川柳のジャンルの差異が考察されるときに、短歌=短歌、俳句=俳句といったふうにジャンル内にある差異が同質化されてしまうといったことではないかとおもうんですね。差異を検分するうちに転倒したかたちでジャンルが前提化されてしまう。
だから、ジャンルを前提としないように自己言及的になりつつも、しかしジャンルの外部をひきこむことでジャンルを問い直していく。そうした作業を泥臭くやっていくこと。
なによりも謎なんですよね。なんだろう、川柳、俳句、短歌って、と。
なぜ、ジャンルが問い直されればされるほど、ジャンルそのものの価値がきらきらしていくんだろう、と。
なかはられいこさんの句集をはじめて読んだときの、川柳っていったいなんなんだ!?、というジャンルとしての衝撃はいまだ忘れていません。
わたしはたぶん、基本的にわたし自身がそのときどきの〈よそもの〉であるような気もしているんですが、でもその〈よそもの〉をひきこむ力をもってる句集がどこのジャンルにもある。それはまずメディアにおいてびっくりさせ、さらにメディアにもりこんだテクストでびっくりさせる。
たしかキルケゴールによれば、ひとはおののくときに、つまずくときに、はじめて〈あれか・これか〉を選べるのだ、と。わたしはだから、おののくような句集を手にするたびに、そのつどの〈よそもの〉として〈あれもこれも〉選びそこねつつ・しかしその〈選びそこね〉によって、すこしずつまた、とりくみはじめるようなきがするのです。アリスのようにおちながら。
スウプかきまぜかきまぜ無人島産むの なかはられいこ
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
なかはられいこさんの句集と向き合うことは自分にとっての〈現代川柳〉とはなんであるかを言語化していく作業にも近いようにも思うんですが、それはたぶんなかはらさんが句集のなかでさまざまな川柳の位相をこころみているからではないかとおもうんですね。
だからなかはらさんの句集を読んだひとがそのひとなりの共鳴装置でもって、実は川柳ってこんなふうな言語表現としての奥行きがあるんだということを実感していく、そういう句集としてあったのではないかとおもうんです。
『脱衣場のアリス』はとてもポップな表紙でそれだけでそれまでもっていた川柳観が崩れるようなメディア伝達的な書物でもあったと思うんですが(それはたとえば、西原天気さんの句集『けむり』や高山れおなさんの『俳諧曽我』といったやはりメディアに自覚的な書物にもいえることだと思うんですが)、そうしたまずはメディアで読者にジャンルの再構築を《それとなく》うながす、でもそれだけじゃなくて(西原さんや高山さんの句集がメディアと連動してテクストもまたジャンルの再定義をうながすような句集であったように)『脱衣場のアリス』の一句一句もまた、読み手に川柳の体系に自分自身で向き直るように促しているようにも思えたんです。
わたしはときどきそのジャンル内において読み手を自己言及的にうながし、ジャンルを再考させるような句集があるのではないかと思っています。脱ー句集的、ともいえるような〈句集〉が。
また、瀧村小奈生さんがご自身のブログにおいて、「ねじまき句会に参加するようになって、川柳を書き始めたものの、『川柳ってなに?』という問いはふくらむばかりだった。そのころ、この対談を何度も読み返した(「曲がりたい泣きたい中央分離帯 なかはられいこ」『そらいろの空』)」といっておられたんですが、このなかはらさんの句集には「なかはられいこと川柳の現在」という石田柊馬さん、倉本朝世さん、穂村弘さん、荻原裕幸さんによる座談会が40ページとかなりの分量で掲載されていて、しかも穂村さんや荻原さんが座談会に川柳の〈外部〉として参加することでかなり〈川柳〉そのものについて考えさせられる座談会になっています。ですから、瀧村さんが述べられたように〈現在〉においても川柳の問題系をつかむのにとても適した座談会になっているんじゃないかと思うんですね(荻原裕幸さんがコーディネートされていると思うんですが、コーディネート=プロデュースから読み直す〈短歌史〉のようなものがあってもいいのではないかとときどき思います。ときどき、短歌の磁場を形成し、少しずつ変えてきたのはコーディネーターやプロデューサー、もしくは選者だったのではないかと思うことがあるんです。ですがそういった〈仕事〉は分有された記憶には残りやすいが体系的な記録としては残りにくい。そういったところがときどき気になります。テクストをむしろつないできた〈場〉のちからが)。
ジャンルはつねに〈外部〉にさらされつづけつつも、問い直されていくものではあると思うんですが、そのときに気をつけなければいけないとおもうのは、短歌・俳句・川柳のジャンルの差異が考察されるときに、短歌=短歌、俳句=俳句といったふうにジャンル内にある差異が同質化されてしまうといったことではないかとおもうんですね。差異を検分するうちに転倒したかたちでジャンルが前提化されてしまう。
だから、ジャンルを前提としないように自己言及的になりつつも、しかしジャンルの外部をひきこむことでジャンルを問い直していく。そうした作業を泥臭くやっていくこと。
なによりも謎なんですよね。なんだろう、川柳、俳句、短歌って、と。
なぜ、ジャンルが問い直されればされるほど、ジャンルそのものの価値がきらきらしていくんだろう、と。
なかはられいこさんの句集をはじめて読んだときの、川柳っていったいなんなんだ!?、というジャンルとしての衝撃はいまだ忘れていません。
わたしはたぶん、基本的にわたし自身がそのときどきの〈よそもの〉であるような気もしているんですが、でもその〈よそもの〉をひきこむ力をもってる句集がどこのジャンルにもある。それはまずメディアにおいてびっくりさせ、さらにメディアにもりこんだテクストでびっくりさせる。
たしかキルケゴールによれば、ひとはおののくときに、つまずくときに、はじめて〈あれか・これか〉を選べるのだ、と。わたしはだから、おののくような句集を手にするたびに、そのつどの〈よそもの〉として〈あれもこれも〉選びそこねつつ・しかしその〈選びそこね〉によって、すこしずつまた、とりくみはじめるようなきがするのです。アリスのようにおちながら。
スウプかきまぜかきまぜ無人島産むの なかはられいこ
- 関連記事
-
-
【お知らせ】笹田かなえさん主催の「カモミール句会設立五周年記念誌上句会」選者 2019/12/24
-
【お知らせ】講座「はじめての現代川柳」(池袋コミュニティ・カレッジ)10/21 2022/09/08
-
【お知らせ】「わたしがあなたを好きな五つの理由―或いはヴァルター・ベンヤミンと竹井紫乙―」『川柳 杜人』248号・2015冬 2015/12/27
-
【お知らせ】「川柳は支えない-兵頭全郎・川合大祐・岩田多佳子-」『川柳カード』14号(終刊号)2017年3月 2017/03/29
-
【お知らせ】「亡霊としての黒田バーバー」『週刊俳句 第481号』 2016/07/10
-
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々のお知らせ