【感想】水着のひとを詠んでいる水着のひとを読む水着のわたし
- 2014/08/03
- 11:15
【水着を詠むこと/水着で読むこと】
『俳句雑誌クプラス創刊号』には、俳句雑誌には(たぶん)めずらしくビキニ=水着姿の写真が載っているのだけれど、その写真をみていて思ったのは、〈水着〉とはつねに〈みる主体〉の所在を問いかけてくるものではないかということである。
水着姿の写真をみて〈(主体として)所在なさげ〉にするのもいいけれど、しかし水着は夏の季語としてある。所在は季語としてすでに決まっている。決まっていないのは、やはりその水着=季語をみている主体なのではないか。そのような視点から、すこし冒険的〈誤読〉をしてみたい。夏なので。あつすぎるので。
少女みな紺の水着を絞りけり 佐藤文香
たとえばこの句においては、水着を「少女」らすべてがすでに〈着〉ていないところにポイントがあるとおもうのだが(つまり脱ー水着的水着俳句だと思うのだけれど)、しかしそのとき語り手は〈どこ〉に〈だれ〉としているのか、という〈みる主体〉をあえて問題にしてみたい。水着を着ているのか着ていないのか。少女なのか少女でないのか。いや、ひょっとすると女なのか、女でないのか、いや、さらにひょっとすると裸眼でみている風景なのか、それともデジタル・メディアを介してレンズまたは液晶越しに〈み〉ているのか、そのうえでの詠嘆「けり」なのかといった水着をみている主体にまつわる〈緊張感〉が潜在的に流れているのがこの句のダイナミズムではないかとおもうのだ(あえて〈みる主体〉を問題にしてみた場合)。
つまり、切れ字「けり」はプール授業の後のような穏やかな情景に対する詠嘆としての「けり」として機能しつつも、同時に、容易に〈視姦〉的な〈倒錯的〉詠嘆としても反転してしまう危うさがある句なのではないか。水着が〈みる主体〉を醸成するように、この句自体が〈みる主体〉を読み手によって位相を変えながら醸成していくようにもおもうのだ。〈読み〉としてはやりすぎなのかもしれないが、もうひとつここで〈みる主体〉を主題にもっていそうな水着の句をみてみたい。
まぼろしの館の中の水着かな 関悦史
ここでも水着にまつわる〈みる主体〉は、「まぼろしの館の中の」と水着がラッピングされてしまうことによって、主体の所在を危うくされてしまう。だれが・どこから・どうやって「まぼろしの館の中の水着」を〈み〉ているのかが問題にされつつも、切れ字「かな」によってなかば暴力的にイメージの風景が膨張していく句だとおもうのだ。「まぼろし」としての抽象性ですべてが反転されるのか、「水着かな」の具体性によって「まぼろしの館」が内側からリアルへとめくれあがるのか。〈みる主体〉がどちらを礎にするかで変転していく句ではないだろうか。
もしかしたら水着姿の写真をみたせいで〈空想=妄想〉がかっとびすぎたのかもしれないが、季題としての水着は、〈みる主体〉を必然的に問題化していくようにおもうのである。それは語り手としての〈みる主体〉の所在であると同時に、読み手としての〈みる主体〉の所在でもある。
季語=水着が発動された瞬間、水着を着そこね〈裸〉になってしまうのは〈読み手〉自身ではないのかと、部屋サーファーで海にまで行く勇気のないひとが、ちょっとおもったりしたのである。
君達の水着の紐の太い部分 佐藤文香
『俳句雑誌クプラス創刊号』には、俳句雑誌には(たぶん)めずらしくビキニ=水着姿の写真が載っているのだけれど、その写真をみていて思ったのは、〈水着〉とはつねに〈みる主体〉の所在を問いかけてくるものではないかということである。
水着姿の写真をみて〈(主体として)所在なさげ〉にするのもいいけれど、しかし水着は夏の季語としてある。所在は季語としてすでに決まっている。決まっていないのは、やはりその水着=季語をみている主体なのではないか。そのような視点から、すこし冒険的〈誤読〉をしてみたい。夏なので。あつすぎるので。
少女みな紺の水着を絞りけり 佐藤文香
たとえばこの句においては、水着を「少女」らすべてがすでに〈着〉ていないところにポイントがあるとおもうのだが(つまり脱ー水着的水着俳句だと思うのだけれど)、しかしそのとき語り手は〈どこ〉に〈だれ〉としているのか、という〈みる主体〉をあえて問題にしてみたい。水着を着ているのか着ていないのか。少女なのか少女でないのか。いや、ひょっとすると女なのか、女でないのか、いや、さらにひょっとすると裸眼でみている風景なのか、それともデジタル・メディアを介してレンズまたは液晶越しに〈み〉ているのか、そのうえでの詠嘆「けり」なのかといった水着をみている主体にまつわる〈緊張感〉が潜在的に流れているのがこの句のダイナミズムではないかとおもうのだ(あえて〈みる主体〉を問題にしてみた場合)。
つまり、切れ字「けり」はプール授業の後のような穏やかな情景に対する詠嘆としての「けり」として機能しつつも、同時に、容易に〈視姦〉的な〈倒錯的〉詠嘆としても反転してしまう危うさがある句なのではないか。水着が〈みる主体〉を醸成するように、この句自体が〈みる主体〉を読み手によって位相を変えながら醸成していくようにもおもうのだ。〈読み〉としてはやりすぎなのかもしれないが、もうひとつここで〈みる主体〉を主題にもっていそうな水着の句をみてみたい。
まぼろしの館の中の水着かな 関悦史
ここでも水着にまつわる〈みる主体〉は、「まぼろしの館の中の」と水着がラッピングされてしまうことによって、主体の所在を危うくされてしまう。だれが・どこから・どうやって「まぼろしの館の中の水着」を〈み〉ているのかが問題にされつつも、切れ字「かな」によってなかば暴力的にイメージの風景が膨張していく句だとおもうのだ。「まぼろし」としての抽象性ですべてが反転されるのか、「水着かな」の具体性によって「まぼろしの館」が内側からリアルへとめくれあがるのか。〈みる主体〉がどちらを礎にするかで変転していく句ではないだろうか。
もしかしたら水着姿の写真をみたせいで〈空想=妄想〉がかっとびすぎたのかもしれないが、季題としての水着は、〈みる主体〉を必然的に問題化していくようにおもうのである。それは語り手としての〈みる主体〉の所在であると同時に、読み手としての〈みる主体〉の所在でもある。
季語=水着が発動された瞬間、水着を着そこね〈裸〉になってしまうのは〈読み手〉自身ではないのかと、部屋サーファーで海にまで行く勇気のないひとが、ちょっとおもったりしたのである。
君達の水着の紐の太い部分 佐藤文香
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