【怪想】県道に俺のふとんが捨ててある 西原天気
- 2014/08/03
- 19:31
県道に俺のふとんが捨ててある 西原天気
【納涼感想百物語─もう、しんでゐるよ】
これはわたしがMさんから聞いた話なのだが、Mさんがゆうじんと西原さんの「県道に俺のふとんが捨ててある」の句について話し合っていて、ふとんが捨ててある状況ってどういう状況なんだろうかとはなしていたときに、ゆうじんが、よくひとが亡くなったりするとそのひとのふとんを捨てることがあるよね、というので、Mさんは、え、そうなの、とおもい、その瞬間、もしかしたら、この句の「俺」っていうのは実はもう死んでるんじゃないか、死んでいてそれでもなにか成仏できないものがあって「県道」を徘徊している幽霊なんじゃないかとおもい、おたがい、たしかに県道って、出やすいよね、霊も、ふとんも、という話になったそうである。
だからちょっと
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡子規
にも近いんじゃないかと。みずから〈死〉の風景を〈生〉の次元とかちあわせた、〈死〉から〈生〉の次元になだれこんでいく句なんじゃないかと、そんなふうにMさんはおもったらしい。
成仏できずに県道を〈徘徊〉しているうちにとつぜん「ふとん」という季題=奇題に出会い、〈俳諧〉しちゃったんじゃないかと。
Mさんは、なんだか、そんなふうにおもいはじめてきて、ゆうじんにこんなふうにいった。この句の語り手はすでに死んでいるんじゃないか。死んでなお、じぶんが死んでいることを視認した、〈死〉の写生句なんじゃないかって、と。
でも、ゆうじんはなにもいわなかったそうだ。それどころか、ゆうじんのすがたはどこにもなくて、そこには、びっしょりと水がたまっていて、びちゃびちゃこぼれおちている。
あれ、ゆうじんっていってもわたしはなんという名前のゆうじんとはなしていたんだったかしら、とMさんはおもったそうだ。Mさんは、すこし、うっかりさんだったのである。
しかし、奥の闇のほうから、これはわたしがMさんからきいたはなしなのだが、と声がする。うっかりもののMさんだったが、たしかにそんな声をきいたらしい。偶然だが、わたしもMさんの隣でそんな声をMさんよりもやや浮いた位置でそのとき聞いていたのである。あれ、なんか闇のほうから声してなくね?、と。
Mさん──とわたしはMさんに話しかける(実際は、「え゛む゛さあああ゛ん゛」というかんじで)。Mさんは黙って、ひろがりゆく水たまりをみている。ときどき、すくってのんだりしている。わたしの水たまりなのに。水たまりのうえにいるわたしはみないのに。わたし、いるんだが、ここに。そこ、にも。
気がつけばわたしは(やや浮かびながら)県道をあるいていて(やや浮かびつつ)感想文を書きはじめている。ああずっとこんなふうにしていたのかも、とわたしはおもう。「これはわたしがMさんからきいたはなしなのだが」をわたしはなんどもなんどもヘヴィロテしている。Mさんはわたしなのだから、なんどもなんどもここにかえってくる。まるでいきていたころのようにして。しんではいるが、とりわけて、懸命に。すなわち、
これはMさんがわたしから聞いた話なのだが、 わたしがゆうじんと西原さんの「県
道に俺のふとんが捨ててある 西原天気
【納涼感想百物語─もう、しんでゐるよ】
これはわたしがMさんから聞いた話なのだが、Mさんがゆうじんと西原さんの「県道に俺のふとんが捨ててある」の句について話し合っていて、ふとんが捨ててある状況ってどういう状況なんだろうかとはなしていたときに、ゆうじんが、よくひとが亡くなったりするとそのひとのふとんを捨てることがあるよね、というので、Mさんは、え、そうなの、とおもい、その瞬間、もしかしたら、この句の「俺」っていうのは実はもう死んでるんじゃないか、死んでいてそれでもなにか成仏できないものがあって「県道」を徘徊している幽霊なんじゃないかとおもい、おたがい、たしかに県道って、出やすいよね、霊も、ふとんも、という話になったそうである。
だからちょっと
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな 正岡子規
にも近いんじゃないかと。みずから〈死〉の風景を〈生〉の次元とかちあわせた、〈死〉から〈生〉の次元になだれこんでいく句なんじゃないかと、そんなふうにMさんはおもったらしい。
成仏できずに県道を〈徘徊〉しているうちにとつぜん「ふとん」という季題=奇題に出会い、〈俳諧〉しちゃったんじゃないかと。
Mさんは、なんだか、そんなふうにおもいはじめてきて、ゆうじんにこんなふうにいった。この句の語り手はすでに死んでいるんじゃないか。死んでなお、じぶんが死んでいることを視認した、〈死〉の写生句なんじゃないかって、と。
でも、ゆうじんはなにもいわなかったそうだ。それどころか、ゆうじんのすがたはどこにもなくて、そこには、びっしょりと水がたまっていて、びちゃびちゃこぼれおちている。
あれ、ゆうじんっていってもわたしはなんという名前のゆうじんとはなしていたんだったかしら、とMさんはおもったそうだ。Mさんは、すこし、うっかりさんだったのである。
しかし、奥の闇のほうから、これはわたしがMさんからきいたはなしなのだが、と声がする。うっかりもののMさんだったが、たしかにそんな声をきいたらしい。偶然だが、わたしもMさんの隣でそんな声をMさんよりもやや浮いた位置でそのとき聞いていたのである。あれ、なんか闇のほうから声してなくね?、と。
Mさん──とわたしはMさんに話しかける(実際は、「え゛む゛さあああ゛ん゛」というかんじで)。Mさんは黙って、ひろがりゆく水たまりをみている。ときどき、すくってのんだりしている。わたしの水たまりなのに。水たまりのうえにいるわたしはみないのに。わたし、いるんだが、ここに。そこ、にも。
気がつけばわたしは(やや浮かびながら)県道をあるいていて(やや浮かびつつ)感想文を書きはじめている。ああずっとこんなふうにしていたのかも、とわたしはおもう。「これはわたしがMさんからきいたはなしなのだが」をわたしはなんどもなんどもヘヴィロテしている。Mさんはわたしなのだから、なんどもなんどもここにかえってくる。まるでいきていたころのようにして。しんではいるが、とりわけて、懸命に。すなわち、
これはMさんがわたしから聞いた話なのだが、 わたしがゆうじんと西原さんの「県
道に俺のふとんが捨ててある 西原天気
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