すっげーさびしいあとがき
- 2014/08/03
- 23:02
ついでに言えば、新体詩以降の「抒情」に、短歌は、俳句ほど疑いを持っていない、というのが、私のイメージです。あくまでイメージ。
西原天気「「俳句~近くて遠い詩型」という現代歌人集会のシンポジウムに行ってきました」『週刊俳句 Haiku Weekly』
【抒情の奇妙な冒険をめぐって】
西原さんの述べられた「抒情」とはすこし意味がちがうかもしれないからこれはわたしが西原さんのことばに触発されてふだんかんがえていることを述べるというかたちになるのだけれど、ときどき、〈さびしさ〉や〈せつなさ〉は一見抽象的であるかにみえて実はきわめて周到に構造化されているのではないかとかんがえることがある。それは、愛や正義や平和やネーションなど抽象概念になればなるほどそうだともおもうのだけれど、〈さびしさ〉や〈せつなさ〉を表現するには、そもそもそれを享受できる〈さびしさ・せつなさ〉共同体がなくてはならない。そしてその共同体はある一定の言説構造を共有することで構造をかいして結束しているのではないかとおもうのだ。
たとえば、
ねえ、キミに会いたいんだよ、キミしか必要ないんだよ、キミ以外あたしにはなにもかもいらないんだよ
という言説は、〈さびしさ〉として享受できるかもしれないけれど、
あーっはははははは、すっげーさびしい
といった言説は、〈さびしい〉と発話しているもののなかなか享受されがたいかもしれない(ただ岡崎京子の言説を受容できるひとなら〈さびしさ〉のコードとして享受できるかもしれない)。
こんなふうに、ある感情が享受されるためには、その感情の共同体がなければならず、その感情の共同体は流通している言説の共有と受容によって行われているのではないかとおもうのだ。
しかしだからこそ、ひとは饒舌になればなるほど、感情の共同体の言説構造に回収されやすくなってしまうのでないかとおもったりもする。
なぜなら、ひとに伝達するには、共有されている構造を借りるのがいちばんてっとりばやいから。
ところが短詩型の強みは、その言説に回収されるよりももっとすばやく舌をとどめてしまうところにある。言説構造をうちたてるまえに、〈終わり〉が訪れるのだ。
ただし短歌よりも川柳は短く、川柳よりも俳句は季語の導入によりさらに短く(語ることに)なる。
そのことによって〈感情〉の共同体の外部にて〈語ること〉を選択してきた表現形態が短詩型ではないかとときどきおもったりするのだ。
だから、わたしはなんのために短詩型をやるのですか、といわれたら、感情の共同体の外部にでるためです、という回答をするのも一つはありではないかとおもったりもする。ただもちろん、それはたやすいことではなくて、短詩型も共同体に回収されやすい面も多々あることは災事になれば定型が逆に利用されやすいところなどにもあらわれているかもしれない(定型は感情共有のためのマトリックスになる場合もある)。
わたしが〈さびしい〉と口にするときに、わたしはさびしいかもしれないのだけれど、共同体としてはむしろぜんぜん〈さびし〉くないのではないか、というそんななんだかさびしさをめぐる話を少ししゅんとなりながらもかんがえてみた。
人生でいっかいでも言説に回収されない〈さびしい〉をいえたときに、ひとは、ほんとうに、〈さびし〉くなれるようなきがするのだ。
にんげんのことばをならべ泣かないでわらいもしない春夏秋冬 柳本々々
(「にんげんのことば」『かばん』2013年12月)
岡崎京子『ヘルタースケルター』
西原天気「「俳句~近くて遠い詩型」という現代歌人集会のシンポジウムに行ってきました」『週刊俳句 Haiku Weekly』
【抒情の奇妙な冒険をめぐって】
西原さんの述べられた「抒情」とはすこし意味がちがうかもしれないからこれはわたしが西原さんのことばに触発されてふだんかんがえていることを述べるというかたちになるのだけれど、ときどき、〈さびしさ〉や〈せつなさ〉は一見抽象的であるかにみえて実はきわめて周到に構造化されているのではないかとかんがえることがある。それは、愛や正義や平和やネーションなど抽象概念になればなるほどそうだともおもうのだけれど、〈さびしさ〉や〈せつなさ〉を表現するには、そもそもそれを享受できる〈さびしさ・せつなさ〉共同体がなくてはならない。そしてその共同体はある一定の言説構造を共有することで構造をかいして結束しているのではないかとおもうのだ。
たとえば、
ねえ、キミに会いたいんだよ、キミしか必要ないんだよ、キミ以外あたしにはなにもかもいらないんだよ
という言説は、〈さびしさ〉として享受できるかもしれないけれど、
あーっはははははは、すっげーさびしい
といった言説は、〈さびしい〉と発話しているもののなかなか享受されがたいかもしれない(ただ岡崎京子の言説を受容できるひとなら〈さびしさ〉のコードとして享受できるかもしれない)。
こんなふうに、ある感情が享受されるためには、その感情の共同体がなければならず、その感情の共同体は流通している言説の共有と受容によって行われているのではないかとおもうのだ。
しかしだからこそ、ひとは饒舌になればなるほど、感情の共同体の言説構造に回収されやすくなってしまうのでないかとおもったりもする。
なぜなら、ひとに伝達するには、共有されている構造を借りるのがいちばんてっとりばやいから。
ところが短詩型の強みは、その言説に回収されるよりももっとすばやく舌をとどめてしまうところにある。言説構造をうちたてるまえに、〈終わり〉が訪れるのだ。
ただし短歌よりも川柳は短く、川柳よりも俳句は季語の導入によりさらに短く(語ることに)なる。
そのことによって〈感情〉の共同体の外部にて〈語ること〉を選択してきた表現形態が短詩型ではないかとときどきおもったりするのだ。
だから、わたしはなんのために短詩型をやるのですか、といわれたら、感情の共同体の外部にでるためです、という回答をするのも一つはありではないかとおもったりもする。ただもちろん、それはたやすいことではなくて、短詩型も共同体に回収されやすい面も多々あることは災事になれば定型が逆に利用されやすいところなどにもあらわれているかもしれない(定型は感情共有のためのマトリックスになる場合もある)。
わたしが〈さびしい〉と口にするときに、わたしはさびしいかもしれないのだけれど、共同体としてはむしろぜんぜん〈さびし〉くないのではないか、というそんななんだかさびしさをめぐる話を少ししゅんとなりながらもかんがえてみた。
人生でいっかいでも言説に回収されない〈さびしい〉をいえたときに、ひとは、ほんとうに、〈さびし〉くなれるようなきがするのだ。
にんげんのことばをならべ泣かないでわらいもしない春夏秋冬 柳本々々
(「にんげんのことば」『かばん』2013年12月)
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