【参考資料】暮田真名『補遺』批評会レポートーわたしはどこにも行きたくない、ここにいたいー寿司・もなか・ポテチー/柳本々々
- 2019/10/08
- 14:26
わたしはどこにも行きたくない、ここにいたいー寿司・もなか・ポテチー 柳本々々
※連作寿司への注目からの現代川柳の特質をさぐる。
・話の流れ
①川柳は交換芸術。世界の部分を交換する。
↓
②川柳はなぜシュールか。部分を交換するから。
↓
③川柳というジャンルの存在自体が人名だから交換的。違う名前もありえた。
↓
④「これからは兔を食べて生きてゆく/小池正博」は川柳というジャンルそのものを句にしたような句。「う・さ・ぎ」という3音を川柳は交換しながら、食べて・生きてゆく。
【現代川柳の食べ物の連作みっつ】
①暮田真名「OD寿司」『補遺』
寿司として流星群は許せない(寿司の意志)
寿司なんだ君には琴に聴こえても(寿司の音)
寿司を縫う人は帰ってくれないか(寿司の性質の置換)
→寿司のそもそもの食べ物としての性質を語るわけではなく、寿司そのもののさまざまな交換可能性をさぐっていく。2音の交換。たとえば、武士や鹿や傘や愛も入れられるなか、寿司を選ぶ。その2音に何を入れるかという意志の問題。川柳は意志が強い。世界の交換可能性を検討している。
②石田柊馬「もなか」『セレクション柳人』
縄跳びをするぞともなかは嚇かされ(もなかへの脅迫)
グラフなどもなかに突きつけてみても(もなかへの疎通)
赤ん坊に もなかの皮に ある時間(もなかの時間性)
→3音の交換
③兵頭全郎「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』
受付にポテトチップス預り証(ポテトチップスのトポス=場所性)
ポテチからポップコーンの上申書(生産するポテチ)
ポテチ踏む戦争映画はエンドロール(ポテチと戦争)
→3音の交換
【現代川柳の連作のふしぎさーどこか遠くへ行きたい vs. わたしはここにいたい】
〈どこか遠くへ行きたい と わたしはここにいたい〉
連作は情報を+していって、どんどん情報を与え物語をつくりあげるものなのに、寿司連作では、世界や文(センテンス)のいろんなものを寿司と交換することで、寿司の情報量はつねにゼロに保たれている。寿司はストーリー化されることなく、多様な寿司に〈ここ〉で変貌をとげつづける。
※川柳は±ゼロの原理。穂村弘さんの『手紙魔まみ』や福田若之さんの連作ののは、まみやののにストーリーを与えていく。でも川柳においては、寿司やもなかやポテチにストーリーは与えず、寿司やもなかやポテチと世界の交換可能性をさぐっていく。ここで交換していたい、という「わたしはここにいたい」。
交換の原理。
「事象からズレたところで川柳を書く神経が動く」(石田柊馬・セレクション柳人)
→世界をズラしつづけることを模索する。世界をズラす狂気をたえぬく。交換できるひととして生きていく。
※なぜ現代川柳はときにシュールなのか。
それは交換原理が働くから。雨の中、傘を持って立っている人。この傘を大根と交換する。傘を寿司やもなかやポテチと交換する。雨の中、大根を持って立っている人。部分的に交換するとシュールな風景になる。
→シュールとは何か。シュールのポイントは交換。
任意のジャンル。「意」に「任」せよう。柄井川柳という無作の選者の任意の名前がそのままジャンルになった。それは太郎や花子でもありえた。任意性。交換性。
短歌は、「歌」。俳句は、「句」。川柳は、人名。
ひとりの人間の名前がそのままジャンルの名前になってしまったこと。これは、ディズニーやガンダムに近い。ディズニーというジャンル。ガンダムというジャンル。名前というおおきなくくりのなかで、さまざまなものが枝分かれしていく。詩性川柳、サラリーマン川柳、時事川柳、Zガンダム、∀ガンダム、Gガンダム。
ふつう連作は遠くへ行きたがるものなのに、現代川柳の連作は、わたしはどこにも行きたくない、ここにいたい、という。それはこんなふうなちがいとしてつぎのように重ねて類比的にいうこともできる。
〈類比:キャラ論 と キャラクター論〉
キャラ:ジャイアン、手紙魔まみ、ゆるキャラ、水木しげるによって絵を与えられたぬりかべ。
キャラクター:寿司、もなか、ポテチ、伝承の中のことばだけのぬりかべ。
ジャイアンはドラえもんの外でも成立する。たとえばジャイアンが句会にあらわれたらどうなるか、どうふるまうかが想像できる(大声で読み上げる、ふきげんになる)。それはジャイアンがキャラだから。でも作品のなかでしか成立しないものがある。暮田さんの寿司とか。それは寿司キャラクター。寿司キャラではない。
たとえば、穂村弘さんの手紙魔まみは、キャラかもしれない可能性。飛んでいって、いろんなモチーフとして、まみというキャラとして使われるかもしれない可能性。でも寿司はキャラとしてとんでいかない。
※補足。妖怪は、伝承の中だけでは、ことばの中だけでは、テキストの中だけでは、キャラクターとして、その伝承の中だけにとどまるが、水木しげるのマンガキャラのように、絵やイメージを与えられた瞬間、メディアを横断し、飛び交うようになる。ぬりかべは、絵を与えられた瞬間、マンガになり、アニメになり、ゲームになり、グッズになり、キャラとして飛び交う。キャラクターは作品内にとどまるが、キャラは作品を超えて飛び交う。
【引用資料・キャラクターとキャラの違いー東園子『宝塚という装置』】
伊藤剛は、マンガに登場するキャラクターを、「キャラクター」と「キャラ」という二つの特性が重なったものとして捉えている。
「キャラクター」とは一般的にいわれる登場人物にあたるもので、特定の作品世界と密接に結びついている。
他方「キャラ」とは、元の作品から切り離されて単体で現れてもそのキャラクターだとわかる「自律性」と、他の作品のなかに登場しても同じキャラクターだと認められる「横断性」を備えたものである。
伊藤によれば、マンガのキャラクターは「「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっている」という。
竹熊健太郎は、この「キャラ/キャラクター」の関係は「役者/役」の関係に近いのではないかと述べ、東浩紀も「キャラクターとキャラの区別の根拠は、単純に作品のなかでしか成立しないか作品の外でも成立するか、という点だけでいい」と同意している。
東園子『宝塚という装置』
→伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』参照。
【補遺をめぐって】
補遺というタイトル。川柳は補遺的思想なところがある。それは〈代補〉という概念を提出したジャック・デリダの脱構築というかんがえかたにもちかく、つねにゼロの場所で世界を読み替えつづける。世界の補遺。それはなくてもよかったもの。でもつけくわえられたとたん、世界をかえるかもしれないもの。過激なゼロの思想。
「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」 暮田真名
パラフレーズ:「好きだからさみしくないよ」「本当に?」
好きを寿司に置換する。でもそのことで世界のありようがすこしかわってゆく。
「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」は、ふつうの会話かもしれないし、クレイジーな会話かもしれない。未来でアリスがチェシャ猫とした会話かもしれない。いらない会話かもしれない。でもこの会話が提出されたとき世界のなにかが変わる。それをせかいの誰かがわすれてもいい。補遺のように、だれかがふとおぼえていればいい。それだけで、世界の基礎のなにかが変化するから。ちょびっとことばが代わる、すこしせかいがへんかすること。
川柳の寿司はたべるものではない。むしろ、会話のなかで活用され、ことばとは、コミュニケーションとはなにかをかんがえろという、寿司じたいが。すこしずれただけで、ことばの意味はかわってしまう。だとしたら、わたしたちはいったいふだんどうことばをつかっていて、どうことばをつかっていないのか。どうお寿司とむきあっているのか。どれだけのことばやお寿司をつかえないでしんでゆくのか。それを、川柳は、かんがえさせる。
【補遺のノート1】
川柳は構文の芸術
連作が時間軸=物語論=統語論ではなくて、ひとつのターム、同じことばの時間のずれ、位置のずれ、配置のずれ、はんれつろん
どこか遠くへ行きたい(キャラ) 対 どこにも行きたくない、ここにいたい(キャラクター)
チェシャ猫的というかどっちも正解、どこにいても同じ、どこにいても寿司なんだから
わたしは火事をみました。というひとつの文を組み立てるのが連作なら、川柳の連作は火事のぶぶんをいれかえつづける。あるいみ、狂気。
ふつうの連作は線条(リニア)にすすんでいくことで、わたしはどこかに旅立ちたい、になるが、川柳はひとつのことばにこだわりつづけることで、わたしはずっとここにいたい、になる。わたしはずっとここにいたいの文芸。きんだいてきな進化論的なかんがえかたともことなっている。ドゥルーズの分化してゆくようなリゾーム的思想。ベンヤミンのくだけたかけらから考えるアレゴリー的思想。
兵頭全郎さんの『n≠0』の中の文章「「二〇一〇年代の川柳~女性アイドルグループ史からの連想(+追記)」の渡辺隆夫「亀れおん」「ベランダマン」などのキャラクター川柳への言及。
川柳とキャラクター論の関係
ぬりかべという妖怪は伝承(語り)のなかでしかなくイメージはなかったのだが(キャラクター)、水木しげるが絵をあたえたことでキャラ化し、あちこちのメディアを動けるようになった。
川柳は作品の中で限定して「キャラクター」をつくりあげる
置換の詩学
福田若之さんのののの連作『自生地』
ののについての情報をふかめてゆく。ののについてのストーリーをにぎらされてゆく。
【補遺のノート2・寿司ともなかとポテトチップスをめぐって】
・語法に投げ込まれる食べものたち
暮田真名さん『補遺』の寿司をめぐる一連、兵頭全郎さん『n≠0』のポテトチップスをめぐる一連、石田柊馬さん『セレクション柳人』のもなかをめぐる一連。どれもふだんの文法を抜け出して、違った文法・語法への接続に酷使される食べ物たち。現代川柳は頑ななまでに食べ物を食べようとしない。
・なぜ食べなかったのか
なぜ現代川柳は食べ物を食べようとしないのかといった問題にはこんな答えが考えられるかもしれない。食べ物がすでに歩き出してしまっている世界なのだと。「おにぎりが勝手に散歩する世界/小池正博」。食べ物の躍動を記述・描写することはできるが、食べ物を食べることは〈共食い〉になってしまう。
・なぜ連なのか、連とは人生だから
連としてさまざまな語法に食べものたちは試される。いままでほんとうにことばの人生を生きてきましたかと問われるように。ほんとうは違法なんだけれど、概念のテストパイロットのような現代川柳は、法を犯して語られた食べものたちを弁護してしまう。「拳からポテチがのぞいている 許せ/兵頭全郎」。
・でもやっぱりそもそもなぜ食べものなのか
でもなんで現代川柳はそこまで食べものを語法的に虐待するのが好きなんだろう。ひとつ考えられるのは、俗と詩のアクセスポイントにあるのが食べものだったんじゃないかということ。俗(食べものの名前)と詩(語法の書き換え)によって現代川柳はどくじの詩の領域を確保しようとする。
・逆アリス
生活しながら、食べながら、その生活をくるわせることで、ことばのチャンネルから、詩にちかづいていくような。Wi-Fiのような食べものを介して。紅茶に漬けてティーカップを食べたイカレ帽子屋の逆パターンのように、〈食べられない食べもの〉を見いだして。逆アリスとして。
地に足をつけてるふりをする。正しいふりをしながら、くるう。くるってませんよといいつつ、くるう。
・俳句と川柳
「玉葱を切るいにしえを直接見る/田島健一」(『ただならぬぽ』)「ピーマン切って中を明るくしてあげた/池田澄子」。俳句は食べ物を対象化し、食べ物そのものではなく、食べ物に対する〈わたしたちの行為〉を描く。でもときどき俳句も現代川柳との境界をたゆたう。「君達はこれから冷し中華になる/上田信治」(『リボン』)。
・テロとたまご
「薄暗いところで立てる生卵」「なにもない部屋に卵を置いてくる/樋口由紀子」(『セレクション柳人』『めるくまーる』)。樋口さんにとって食べ物は生命テロに近いものになっている。やっぱり食べない。でも世界の変革は狙う。卵で。名詞を卵にすり替えることが詩のテロにつながってゆく。こわいのはたまごをこわくすることのできることばだ。
・もろさ
暮田真名さんの寿司、兵頭全郎さんのポテトチップス、石田柊馬さんのもなか。どれももろさ、壊れやすさ、傷つきやすさ、可傷性(ヴァルネラビリティー)を持っている点で共通している。寿司は崩れ、ポテチは割れ、もなかは潰れる。その傷つきやすさ、食べ物の死の可能性の中で詩が紡がれること。
・任意の文学
柄井川柳という無作の選者の名前からとられた特異なジャンル。名前がジャンルになったふしぎな任意の文芸。食べ物という任意性。ほかの食べ物もなりうる可能性。
・Sinさんの発言:題詠が多い川柳にとって、創作作業は言葉の定義づくりととても似た作業のような気がする(おかじょうき2015/9)
→非定義づけ。定義解体構築。
任意的意味付けが入る契機。
川上三太郎の発言:どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ。それ以外は全て川柳でもらおう
→川柳はなんでもありという任意性。
※川柳というジャンル自体が交換の原理で動いている。
飯島章友さんの発言:川柳は五七五の無免許運転
→なんでもありの任意性
・口語構文の発明や生成。新しい口語構文をみつける。
・これからは兎を食べて生きてゆく/小池正博(『転校生は蟻まみれ』)→川柳のジャンル論のような句。この「兎」の三音にいろんな潜在可能性をもちながら、川柳は世界の事物を食べながら生きてゆく。川柳というジャンル自体が交換の原理で動いている。三音をいろいろ交換させながら川柳は生きていく。
※連作寿司への注目からの現代川柳の特質をさぐる。
・話の流れ
①川柳は交換芸術。世界の部分を交換する。
↓
②川柳はなぜシュールか。部分を交換するから。
↓
③川柳というジャンルの存在自体が人名だから交換的。違う名前もありえた。
↓
④「これからは兔を食べて生きてゆく/小池正博」は川柳というジャンルそのものを句にしたような句。「う・さ・ぎ」という3音を川柳は交換しながら、食べて・生きてゆく。
【現代川柳の食べ物の連作みっつ】
①暮田真名「OD寿司」『補遺』
寿司として流星群は許せない(寿司の意志)
寿司なんだ君には琴に聴こえても(寿司の音)
寿司を縫う人は帰ってくれないか(寿司の性質の置換)
→寿司のそもそもの食べ物としての性質を語るわけではなく、寿司そのもののさまざまな交換可能性をさぐっていく。2音の交換。たとえば、武士や鹿や傘や愛も入れられるなか、寿司を選ぶ。その2音に何を入れるかという意志の問題。川柳は意志が強い。世界の交換可能性を検討している。
②石田柊馬「もなか」『セレクション柳人』
縄跳びをするぞともなかは嚇かされ(もなかへの脅迫)
グラフなどもなかに突きつけてみても(もなかへの疎通)
赤ん坊に もなかの皮に ある時間(もなかの時間性)
→3音の交換
③兵頭全郎「開封後は早めにお召し上がり下さい」『n≠0』
受付にポテトチップス預り証(ポテトチップスのトポス=場所性)
ポテチからポップコーンの上申書(生産するポテチ)
ポテチ踏む戦争映画はエンドロール(ポテチと戦争)
→3音の交換
【現代川柳の連作のふしぎさーどこか遠くへ行きたい vs. わたしはここにいたい】
〈どこか遠くへ行きたい と わたしはここにいたい〉
連作は情報を+していって、どんどん情報を与え物語をつくりあげるものなのに、寿司連作では、世界や文(センテンス)のいろんなものを寿司と交換することで、寿司の情報量はつねにゼロに保たれている。寿司はストーリー化されることなく、多様な寿司に〈ここ〉で変貌をとげつづける。
※川柳は±ゼロの原理。穂村弘さんの『手紙魔まみ』や福田若之さんの連作ののは、まみやののにストーリーを与えていく。でも川柳においては、寿司やもなかやポテチにストーリーは与えず、寿司やもなかやポテチと世界の交換可能性をさぐっていく。ここで交換していたい、という「わたしはここにいたい」。
交換の原理。
「事象からズレたところで川柳を書く神経が動く」(石田柊馬・セレクション柳人)
→世界をズラしつづけることを模索する。世界をズラす狂気をたえぬく。交換できるひととして生きていく。
※なぜ現代川柳はときにシュールなのか。
それは交換原理が働くから。雨の中、傘を持って立っている人。この傘を大根と交換する。傘を寿司やもなかやポテチと交換する。雨の中、大根を持って立っている人。部分的に交換するとシュールな風景になる。
→シュールとは何か。シュールのポイントは交換。
任意のジャンル。「意」に「任」せよう。柄井川柳という無作の選者の任意の名前がそのままジャンルになった。それは太郎や花子でもありえた。任意性。交換性。
短歌は、「歌」。俳句は、「句」。川柳は、人名。
ひとりの人間の名前がそのままジャンルの名前になってしまったこと。これは、ディズニーやガンダムに近い。ディズニーというジャンル。ガンダムというジャンル。名前というおおきなくくりのなかで、さまざまなものが枝分かれしていく。詩性川柳、サラリーマン川柳、時事川柳、Zガンダム、∀ガンダム、Gガンダム。
ふつう連作は遠くへ行きたがるものなのに、現代川柳の連作は、わたしはどこにも行きたくない、ここにいたい、という。それはこんなふうなちがいとしてつぎのように重ねて類比的にいうこともできる。
〈類比:キャラ論 と キャラクター論〉
キャラ:ジャイアン、手紙魔まみ、ゆるキャラ、水木しげるによって絵を与えられたぬりかべ。
キャラクター:寿司、もなか、ポテチ、伝承の中のことばだけのぬりかべ。
ジャイアンはドラえもんの外でも成立する。たとえばジャイアンが句会にあらわれたらどうなるか、どうふるまうかが想像できる(大声で読み上げる、ふきげんになる)。それはジャイアンがキャラだから。でも作品のなかでしか成立しないものがある。暮田さんの寿司とか。それは寿司キャラクター。寿司キャラではない。
たとえば、穂村弘さんの手紙魔まみは、キャラかもしれない可能性。飛んでいって、いろんなモチーフとして、まみというキャラとして使われるかもしれない可能性。でも寿司はキャラとしてとんでいかない。
※補足。妖怪は、伝承の中だけでは、ことばの中だけでは、テキストの中だけでは、キャラクターとして、その伝承の中だけにとどまるが、水木しげるのマンガキャラのように、絵やイメージを与えられた瞬間、メディアを横断し、飛び交うようになる。ぬりかべは、絵を与えられた瞬間、マンガになり、アニメになり、ゲームになり、グッズになり、キャラとして飛び交う。キャラクターは作品内にとどまるが、キャラは作品を超えて飛び交う。
【引用資料・キャラクターとキャラの違いー東園子『宝塚という装置』】
伊藤剛は、マンガに登場するキャラクターを、「キャラクター」と「キャラ」という二つの特性が重なったものとして捉えている。
「キャラクター」とは一般的にいわれる登場人物にあたるもので、特定の作品世界と密接に結びついている。
他方「キャラ」とは、元の作品から切り離されて単体で現れてもそのキャラクターだとわかる「自律性」と、他の作品のなかに登場しても同じキャラクターだと認められる「横断性」を備えたものである。
伊藤によれば、マンガのキャラクターは「「キャラ」というものの成立の上に、「キャラクター」を表現しうるようになっている」という。
竹熊健太郎は、この「キャラ/キャラクター」の関係は「役者/役」の関係に近いのではないかと述べ、東浩紀も「キャラクターとキャラの区別の根拠は、単純に作品のなかでしか成立しないか作品の外でも成立するか、という点だけでいい」と同意している。
東園子『宝塚という装置』
→伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』参照。
【補遺をめぐって】
補遺というタイトル。川柳は補遺的思想なところがある。それは〈代補〉という概念を提出したジャック・デリダの脱構築というかんがえかたにもちかく、つねにゼロの場所で世界を読み替えつづける。世界の補遺。それはなくてもよかったもの。でもつけくわえられたとたん、世界をかえるかもしれないもの。過激なゼロの思想。
「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」 暮田真名
パラフレーズ:「好きだからさみしくないよ」「本当に?」
好きを寿司に置換する。でもそのことで世界のありようがすこしかわってゆく。
「寿司だからさみしくないよ」「本当に?」は、ふつうの会話かもしれないし、クレイジーな会話かもしれない。未来でアリスがチェシャ猫とした会話かもしれない。いらない会話かもしれない。でもこの会話が提出されたとき世界のなにかが変わる。それをせかいの誰かがわすれてもいい。補遺のように、だれかがふとおぼえていればいい。それだけで、世界の基礎のなにかが変化するから。ちょびっとことばが代わる、すこしせかいがへんかすること。
川柳の寿司はたべるものではない。むしろ、会話のなかで活用され、ことばとは、コミュニケーションとはなにかをかんがえろという、寿司じたいが。すこしずれただけで、ことばの意味はかわってしまう。だとしたら、わたしたちはいったいふだんどうことばをつかっていて、どうことばをつかっていないのか。どうお寿司とむきあっているのか。どれだけのことばやお寿司をつかえないでしんでゆくのか。それを、川柳は、かんがえさせる。
【補遺のノート1】
川柳は構文の芸術
連作が時間軸=物語論=統語論ではなくて、ひとつのターム、同じことばの時間のずれ、位置のずれ、配置のずれ、はんれつろん
どこか遠くへ行きたい(キャラ) 対 どこにも行きたくない、ここにいたい(キャラクター)
チェシャ猫的というかどっちも正解、どこにいても同じ、どこにいても寿司なんだから
わたしは火事をみました。というひとつの文を組み立てるのが連作なら、川柳の連作は火事のぶぶんをいれかえつづける。あるいみ、狂気。
ふつうの連作は線条(リニア)にすすんでいくことで、わたしはどこかに旅立ちたい、になるが、川柳はひとつのことばにこだわりつづけることで、わたしはずっとここにいたい、になる。わたしはずっとここにいたいの文芸。きんだいてきな進化論的なかんがえかたともことなっている。ドゥルーズの分化してゆくようなリゾーム的思想。ベンヤミンのくだけたかけらから考えるアレゴリー的思想。
兵頭全郎さんの『n≠0』の中の文章「「二〇一〇年代の川柳~女性アイドルグループ史からの連想(+追記)」の渡辺隆夫「亀れおん」「ベランダマン」などのキャラクター川柳への言及。
川柳とキャラクター論の関係
ぬりかべという妖怪は伝承(語り)のなかでしかなくイメージはなかったのだが(キャラクター)、水木しげるが絵をあたえたことでキャラ化し、あちこちのメディアを動けるようになった。
川柳は作品の中で限定して「キャラクター」をつくりあげる
置換の詩学
福田若之さんのののの連作『自生地』
ののについての情報をふかめてゆく。ののについてのストーリーをにぎらされてゆく。
【補遺のノート2・寿司ともなかとポテトチップスをめぐって】
・語法に投げ込まれる食べものたち
暮田真名さん『補遺』の寿司をめぐる一連、兵頭全郎さん『n≠0』のポテトチップスをめぐる一連、石田柊馬さん『セレクション柳人』のもなかをめぐる一連。どれもふだんの文法を抜け出して、違った文法・語法への接続に酷使される食べ物たち。現代川柳は頑ななまでに食べ物を食べようとしない。
・なぜ食べなかったのか
なぜ現代川柳は食べ物を食べようとしないのかといった問題にはこんな答えが考えられるかもしれない。食べ物がすでに歩き出してしまっている世界なのだと。「おにぎりが勝手に散歩する世界/小池正博」。食べ物の躍動を記述・描写することはできるが、食べ物を食べることは〈共食い〉になってしまう。
・なぜ連なのか、連とは人生だから
連としてさまざまな語法に食べものたちは試される。いままでほんとうにことばの人生を生きてきましたかと問われるように。ほんとうは違法なんだけれど、概念のテストパイロットのような現代川柳は、法を犯して語られた食べものたちを弁護してしまう。「拳からポテチがのぞいている 許せ/兵頭全郎」。
・でもやっぱりそもそもなぜ食べものなのか
でもなんで現代川柳はそこまで食べものを語法的に虐待するのが好きなんだろう。ひとつ考えられるのは、俗と詩のアクセスポイントにあるのが食べものだったんじゃないかということ。俗(食べものの名前)と詩(語法の書き換え)によって現代川柳はどくじの詩の領域を確保しようとする。
・逆アリス
生活しながら、食べながら、その生活をくるわせることで、ことばのチャンネルから、詩にちかづいていくような。Wi-Fiのような食べものを介して。紅茶に漬けてティーカップを食べたイカレ帽子屋の逆パターンのように、〈食べられない食べもの〉を見いだして。逆アリスとして。
地に足をつけてるふりをする。正しいふりをしながら、くるう。くるってませんよといいつつ、くるう。
・俳句と川柳
「玉葱を切るいにしえを直接見る/田島健一」(『ただならぬぽ』)「ピーマン切って中を明るくしてあげた/池田澄子」。俳句は食べ物を対象化し、食べ物そのものではなく、食べ物に対する〈わたしたちの行為〉を描く。でもときどき俳句も現代川柳との境界をたゆたう。「君達はこれから冷し中華になる/上田信治」(『リボン』)。
・テロとたまご
「薄暗いところで立てる生卵」「なにもない部屋に卵を置いてくる/樋口由紀子」(『セレクション柳人』『めるくまーる』)。樋口さんにとって食べ物は生命テロに近いものになっている。やっぱり食べない。でも世界の変革は狙う。卵で。名詞を卵にすり替えることが詩のテロにつながってゆく。こわいのはたまごをこわくすることのできることばだ。
・もろさ
暮田真名さんの寿司、兵頭全郎さんのポテトチップス、石田柊馬さんのもなか。どれももろさ、壊れやすさ、傷つきやすさ、可傷性(ヴァルネラビリティー)を持っている点で共通している。寿司は崩れ、ポテチは割れ、もなかは潰れる。その傷つきやすさ、食べ物の死の可能性の中で詩が紡がれること。
・任意の文学
柄井川柳という無作の選者の名前からとられた特異なジャンル。名前がジャンルになったふしぎな任意の文芸。食べ物という任意性。ほかの食べ物もなりうる可能性。
・Sinさんの発言:題詠が多い川柳にとって、創作作業は言葉の定義づくりととても似た作業のような気がする(おかじょうき2015/9)
→非定義づけ。定義解体構築。
任意的意味付けが入る契機。
川上三太郎の発言:どこまでが俳句か、俳句の方で決めてくれ。それ以外は全て川柳でもらおう
→川柳はなんでもありという任意性。
※川柳というジャンル自体が交換の原理で動いている。
飯島章友さんの発言:川柳は五七五の無免許運転
→なんでもありの任意性
・口語構文の発明や生成。新しい口語構文をみつける。
・これからは兎を食べて生きてゆく/小池正博(『転校生は蟻まみれ』)→川柳のジャンル論のような句。この「兎」の三音にいろんな潜在可能性をもちながら、川柳は世界の事物を食べながら生きてゆく。川柳というジャンル自体が交換の原理で動いている。三音をいろいろ交換させながら川柳は生きていく。
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