【短歌】ふゆのひに…(毎日新聞・毎日歌壇2014/2/17掲載 加藤治郎選)
- 2014/04/10
- 12:31
ふゆのひにリア獣といういきものがデジタルの闇に遠足にゆく 柳本々々
(毎日新聞・毎日歌壇2014/2/17掲載 加藤治郎選)
【自(分で)解(いてみる)-歌からリア獣を、解き放つ-】
短歌には、ひとつのカテゴリーとして「リア充短歌/非リア充短歌」というのがあるような気がするんです。
これはあとで述べるように永井祐さんの歌集『日本の中で楽しく暮らす』を読んでいてだんだんとおもいはじめたことなんですが、なぜ短歌がリア充とかかわりあいが出てくるのかということを考えたさいに、どうも短歌じたいの形式と関係があるようにおもうんです。
短歌はよく上の句(五七五)と下の句(七七)の関係性が考察されるんですが、たとえば永田和宏さんは『表現の吃水』において短歌とは「〈間〉と〈答〉の合わせ鏡」だと述べています。
そうすると短歌じたいの形式のなかで「上の句→←下の句」というようにひとつの充実度が賭金になっているのが短歌の短歌性なのではないかとおもうんです。
その充実度をがちっとするのか、それともあえてそらしてしまうのか、空疎にして形式性を浮かび上がらせるかは詠み手しだいだということになります。
そんなふうに短歌と充実度はじつはすこし関係があるようにおもいます。
そこで内容面から短歌において〈リア充〉というものがどう関わってくるのかを永井祐さんの短歌を例にすこしかんがえてみたいとおもいます。
【リアル充実としての永井祐-ほんとうに月はよかったのか?-】
歌人の永井祐さんにこんな短歌があります。
彼女いるいないを置いておくとしてあるいはリア充なのかもしれない
この歌で問われているのは、リア充なのか・リア充でないかが、歌の主題になる、っていう事態だとおもうんです。
つまり、生の充実・生きることの満足、彼女いるいないというリアルの生の充実度はおいておくとしても、それよりも他者からうけるラベルとしての生、リア充かリア充でないかが歌うことの賭金になっている。そういう事態が率直にうたわれている短歌なんじゃないかとおもうんです。ひょっとすると、リア充とは、リアルな生ではなく、リアルということばとは裏腹にデジタルの生の充実度をはかることがリア充なのではないかとすら、おもいます。
実際、永井さんの場合は、「写メ」などデジタル・メディアを生にとりこんでいく歌をうたっています。
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
で、永井祐さんというのはひとつのテーマとして、このリア充なのか・リア充でないのか、というテーマが短歌にみられるのではないかとおもいます。
たとえば永井祐さんの有名なうたにこんなうたがあります。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
これはわたしは短歌史においてある有名な歌とリア充軸をかいして対照的なありかたで共鳴しあっているんじゃないかとおもうんですが、それが俵万智さんのやはり有名なこのうたです。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
俵万智さんの場合、「寒いね」と話しかけて「寒いね」とそっくりそのままど同語反復的にあいてからことばが返ってくる過不足ない主体間の相互関係がみられます。わたしはこの同語反復的「あたたかさ」こそがリア充の核心にあるのではないかとおもうんです。つまり、同語反復的に返事を返されることによって「寒いね」の意味が意味として機能しないくらいあいてと鏡像関係にある想像界的・双数的な世界。
一方、永井さんのうたでは「月いいよね」と「君」が言ったものの「ぼく」は答えていません。なぜなら、「ぼく」は「君」とは帰る方向がちがう「こっち」だからです。だから「月いいよね」とは「僕」は返せない。「君」とまったき満ち足りた関係にあるわけではなくて、「君」の「月いいよね」の「真意」を知ることはできないからです。「ぼく」にいえるのは、「じゃあまたね」と関係を断ち切ることだけです。これは俵万智さんの短歌をもじれば「答えることのできない寒さ」です。
これはコミュニケーションがうまくできない、とか、人生楽しくないとか、そういったことではなくて(実際永井祐さんの歌集のタイトルは『日本の中で楽しく暮らす』です)、リア充とはいったいなんなのか、ということをリア充かどうかを補足できないかたちでえがいた短歌なんじゃないかとおもうんです。つまり、それがリア充をうたうということなのではないかと。
リア充は、リアルな生と関係あるようで関係がない、じぶんがどう思っているかなどとも関係がない、リア充はいったい、いつ・だれが・どうやって・どのように決めていくのか。それはただたんに対他関係で現象的に浮かび上がってくるものではないのか。もしくはむしろ読み手ではなく、聞き手が決めているのではないか。そういったリア充にかんするいろんな問題系をうたっているのが永井祐さんのひとつの短歌の側面なのではないかとおもいます。
(毎日新聞・毎日歌壇2014/2/17掲載 加藤治郎選)
【自(分で)解(いてみる)-歌からリア獣を、解き放つ-】
短歌には、ひとつのカテゴリーとして「リア充短歌/非リア充短歌」というのがあるような気がするんです。
これはあとで述べるように永井祐さんの歌集『日本の中で楽しく暮らす』を読んでいてだんだんとおもいはじめたことなんですが、なぜ短歌がリア充とかかわりあいが出てくるのかということを考えたさいに、どうも短歌じたいの形式と関係があるようにおもうんです。
短歌はよく上の句(五七五)と下の句(七七)の関係性が考察されるんですが、たとえば永田和宏さんは『表現の吃水』において短歌とは「〈間〉と〈答〉の合わせ鏡」だと述べています。
そうすると短歌じたいの形式のなかで「上の句→←下の句」というようにひとつの充実度が賭金になっているのが短歌の短歌性なのではないかとおもうんです。
その充実度をがちっとするのか、それともあえてそらしてしまうのか、空疎にして形式性を浮かび上がらせるかは詠み手しだいだということになります。
そんなふうに短歌と充実度はじつはすこし関係があるようにおもいます。
そこで内容面から短歌において〈リア充〉というものがどう関わってくるのかを永井祐さんの短歌を例にすこしかんがえてみたいとおもいます。
【リアル充実としての永井祐-ほんとうに月はよかったのか?-】
歌人の永井祐さんにこんな短歌があります。
彼女いるいないを置いておくとしてあるいはリア充なのかもしれない
この歌で問われているのは、リア充なのか・リア充でないかが、歌の主題になる、っていう事態だとおもうんです。
つまり、生の充実・生きることの満足、彼女いるいないというリアルの生の充実度はおいておくとしても、それよりも他者からうけるラベルとしての生、リア充かリア充でないかが歌うことの賭金になっている。そういう事態が率直にうたわれている短歌なんじゃないかとおもうんです。ひょっとすると、リア充とは、リアルな生ではなく、リアルということばとは裏腹にデジタルの生の充実度をはかることがリア充なのではないかとすら、おもいます。
実際、永井さんの場合は、「写メ」などデジタル・メディアを生にとりこんでいく歌をうたっています。
わたしは別におしゃれではなく写メールで地元を撮ったりして暮らしてる
で、永井祐さんというのはひとつのテーマとして、このリア充なのか・リア充でないのか、というテーマが短歌にみられるのではないかとおもいます。
たとえば永井祐さんの有名なうたにこんなうたがあります。
月を見つけて月いいよねと君が言う ぼくはこっちだからじゃあまたね
これはわたしは短歌史においてある有名な歌とリア充軸をかいして対照的なありかたで共鳴しあっているんじゃないかとおもうんですが、それが俵万智さんのやはり有名なこのうたです。
「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ
俵万智さんの場合、「寒いね」と話しかけて「寒いね」とそっくりそのままど同語反復的にあいてからことばが返ってくる過不足ない主体間の相互関係がみられます。わたしはこの同語反復的「あたたかさ」こそがリア充の核心にあるのではないかとおもうんです。つまり、同語反復的に返事を返されることによって「寒いね」の意味が意味として機能しないくらいあいてと鏡像関係にある想像界的・双数的な世界。
一方、永井さんのうたでは「月いいよね」と「君」が言ったものの「ぼく」は答えていません。なぜなら、「ぼく」は「君」とは帰る方向がちがう「こっち」だからです。だから「月いいよね」とは「僕」は返せない。「君」とまったき満ち足りた関係にあるわけではなくて、「君」の「月いいよね」の「真意」を知ることはできないからです。「ぼく」にいえるのは、「じゃあまたね」と関係を断ち切ることだけです。これは俵万智さんの短歌をもじれば「答えることのできない寒さ」です。
これはコミュニケーションがうまくできない、とか、人生楽しくないとか、そういったことではなくて(実際永井祐さんの歌集のタイトルは『日本の中で楽しく暮らす』です)、リア充とはいったいなんなのか、ということをリア充かどうかを補足できないかたちでえがいた短歌なんじゃないかとおもうんです。つまり、それがリア充をうたうということなのではないかと。
リア充は、リアルな生と関係あるようで関係がない、じぶんがどう思っているかなどとも関係がない、リア充はいったい、いつ・だれが・どうやって・どのように決めていくのか。それはただたんに対他関係で現象的に浮かび上がってくるものではないのか。もしくはむしろ読み手ではなく、聞き手が決めているのではないか。そういったリア充にかんするいろんな問題系をうたっているのが永井祐さんのひとつの短歌の側面なのではないかとおもいます。
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