【感想】いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規
- 2014/08/07
- 12:49
いくたびも雪の深さを尋ねけり 正岡子規
【生き延びるための写生、あるいはゾンビ化する切れ字】
子規の俳句っていつもふしぎで、独特の空間を形成しているようにおもうんですが、それはどこかで〈蓋然性〉としての句としての正岡子規があるからなのではないかとおもうんですね。必然性の対義語としての蓋然性です。〈確からしさ〉の句。
もちろん、〈寝〉たままの〈写生〉なのでそれは〈必然的〉にそうなってしまったともいえるんですが、たとえば上の句は、「雪の深さ」を〈み〉る句ではなくて、〈み(え)ない〉句、「雪の深さ」が〈蓋然性〉としてあらわれている句です。
ただそのことによって俳句表現においてはおそらくきわめて珍しい〈身体(ボディ)〉が俳句をとおしてあらわれでてしまっているのではないかとおもうのです。
「平淡の中に至味を寓するものに至つては、其妙実に言ふ可からざるものがある」(正岡子規)のが〈写生〉なのに、この句はなぜ「雪の深さ」を〈み〉ないで「尋ね」てしまったのか、ということがあらわれているようにおもいます。ということはこの句で主題になってしまうのは、景よりもその景をみている/みようとしている/みそこねている〈身体(ボディ)〉とはなんだったのかということのようにもおもうのです。
しかもこの句においてはみるべき景としての「雪」は「深さ」に変換されることで手をさしいれ、〈身体〉として感じる受肉化された雪です。「いくたびも」という上五からは〈みる=知る〉主体と〈みえない=知ることのできない〉主体との拮抗もみられます。
「尋ねけり」の切れ字のけりも、たとえば飯田蛇笏の「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」のけりのように風鈴の音をどこまでも響かせていく〈余韻〉としてあるのではなく、〈尋ね〉ることの余韻としてつまりどこまでもいっても〈写生をしようとしつつ挫折するしかない〉「尋ね」る身体の永遠として「けり」が横たわるボディのように〈余韻する肉体〉としてあらわれているようにもおもうのです。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規
【生き延びるための写生、あるいはゾンビ化する切れ字】
子規の俳句っていつもふしぎで、独特の空間を形成しているようにおもうんですが、それはどこかで〈蓋然性〉としての句としての正岡子規があるからなのではないかとおもうんですね。必然性の対義語としての蓋然性です。〈確からしさ〉の句。
もちろん、〈寝〉たままの〈写生〉なのでそれは〈必然的〉にそうなってしまったともいえるんですが、たとえば上の句は、「雪の深さ」を〈み〉る句ではなくて、〈み(え)ない〉句、「雪の深さ」が〈蓋然性〉としてあらわれている句です。
ただそのことによって俳句表現においてはおそらくきわめて珍しい〈身体(ボディ)〉が俳句をとおしてあらわれでてしまっているのではないかとおもうのです。
「平淡の中に至味を寓するものに至つては、其妙実に言ふ可からざるものがある」(正岡子規)のが〈写生〉なのに、この句はなぜ「雪の深さ」を〈み〉ないで「尋ね」てしまったのか、ということがあらわれているようにおもいます。ということはこの句で主題になってしまうのは、景よりもその景をみている/みようとしている/みそこねている〈身体(ボディ)〉とはなんだったのかということのようにもおもうのです。
しかもこの句においてはみるべき景としての「雪」は「深さ」に変換されることで手をさしいれ、〈身体〉として感じる受肉化された雪です。「いくたびも」という上五からは〈みる=知る〉主体と〈みえない=知ることのできない〉主体との拮抗もみられます。
「尋ねけり」の切れ字のけりも、たとえば飯田蛇笏の「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」のけりのように風鈴の音をどこまでも響かせていく〈余韻〉としてあるのではなく、〈尋ね〉ることの余韻としてつまりどこまでもいっても〈写生をしようとしつつ挫折するしかない〉「尋ね」る身体の永遠として「けり」が横たわるボディのように〈余韻する肉体〉としてあらわれているようにもおもうのです。
瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり 正岡子規
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