【感想】現象でした 通知表の4でした 咲きっぱなしの桜はとても 笹井宏之
- 2014/04/12
- 12:45
現象でした 通知票の4でした 咲きっぱなしの桜はとても 笹井宏之
【構造の魔術師-帽子から構造がでる-】
定型っていうのは、サブテキストなんじゃないか、副読本なんじゃないかっておもうことがあります。
短歌っていうのは、二層仕立てになっていて、まずテキストとしての歌があります。しかしその歌の注釈として定型があるんじゃないかっておもったりすることがあるんです。
それを笹井宏之さんの歌を例にとってかんがえてみたいんですが、うえの歌を定型に沿って区分けすると、
現象で/した 通知表/の4でした/咲きっぱなしの/桜はとても
仮にこんなふうに五七六七七で区切ってみるとします。
その場合、すこし気になってくるのが、破調している第三句の「の4でした」です。なぜ、ここだけ破調してしまったのか。
で、おもうのですが、実は第三句は破調していないんじゃないかとおもったりするのです。
つまり、第三句は「のよんでした」という6音じゃなくて、「のしでした」という5音なのじゃないかと。
そのときに、潜在化されていたものが浮かび上がってくるとおもうのですが、それは「4=し=死」なのではないかと。
だからこれは潜在的に「死」をうたったうたなのではないかとおもうのです。
咲きっぱなしの桜は「通知表の4」でありつつも、それを即座に反転してしまうような、データに還元されない「通知表の死」としての表象も含んでいるのでないか。
だからこの歌はそもそもがマテリアルとは一線を画するような「現象」としての「桜」をうたっているのではないか。
つまりこの歌は、いちどめは「通知表の4」とよませつつも、くりかえしとなえられていくうちに「通知表の死」にずれていく構造をもっているのではないか。
この歌でもうひとつ不思議なところがあって、この歌は倒置構造になっていて、倒置をなおすと「咲きっぱなし桜はとても現象でした、通知票の4でした」となるとおもんですが、このなかの「とても」がふしぎな係り方というかありえない係り方をしています。
とてもすてきだ、とはいえるとおもうんですけれど、とても現象だ、というのは文の並びとして、シンタックスとしては壊れています。
その意味で、この歌は倒置法を用いつつもいちどよんでしまったら倒置法がなりたたない地点へと連れていかれます。
笹井さんの短歌はふしぎな短歌が多いんですが、ソフトウェアとしてのテキストとしてのふしぎさもさることながら、それよりもむしろ構造がふしぎなのだというべきなのではないでしょうか。
読みながらそうじゃないかなとおもってよんでいったのに、よみおわったあとにまったく反対のちがう地点につれていかれてしまう。つまり、よむたびに構造がかわる仕掛けをほどこされてしまっている。
そういう構造に対してひじょうに敏感だったのが、そして構造のふしぎさを鋭敏につかいつつ詠み込んでいったのが笹井宏之という歌人だったのではないかとおもうのです。
【構造の魔術師-帽子から構造がでる-】
定型っていうのは、サブテキストなんじゃないか、副読本なんじゃないかっておもうことがあります。
短歌っていうのは、二層仕立てになっていて、まずテキストとしての歌があります。しかしその歌の注釈として定型があるんじゃないかっておもったりすることがあるんです。
それを笹井宏之さんの歌を例にとってかんがえてみたいんですが、うえの歌を定型に沿って区分けすると、
現象で/した 通知表/の4でした/咲きっぱなしの/桜はとても
仮にこんなふうに五七六七七で区切ってみるとします。
その場合、すこし気になってくるのが、破調している第三句の「の4でした」です。なぜ、ここだけ破調してしまったのか。
で、おもうのですが、実は第三句は破調していないんじゃないかとおもったりするのです。
つまり、第三句は「のよんでした」という6音じゃなくて、「のしでした」という5音なのじゃないかと。
そのときに、潜在化されていたものが浮かび上がってくるとおもうのですが、それは「4=し=死」なのではないかと。
だからこれは潜在的に「死」をうたったうたなのではないかとおもうのです。
咲きっぱなしの桜は「通知表の4」でありつつも、それを即座に反転してしまうような、データに還元されない「通知表の死」としての表象も含んでいるのでないか。
だからこの歌はそもそもがマテリアルとは一線を画するような「現象」としての「桜」をうたっているのではないか。
つまりこの歌は、いちどめは「通知表の4」とよませつつも、くりかえしとなえられていくうちに「通知表の死」にずれていく構造をもっているのではないか。
この歌でもうひとつ不思議なところがあって、この歌は倒置構造になっていて、倒置をなおすと「咲きっぱなし桜はとても現象でした、通知票の4でした」となるとおもんですが、このなかの「とても」がふしぎな係り方というかありえない係り方をしています。
とてもすてきだ、とはいえるとおもうんですけれど、とても現象だ、というのは文の並びとして、シンタックスとしては壊れています。
その意味で、この歌は倒置法を用いつつもいちどよんでしまったら倒置法がなりたたない地点へと連れていかれます。
笹井さんの短歌はふしぎな短歌が多いんですが、ソフトウェアとしてのテキストとしてのふしぎさもさることながら、それよりもむしろ構造がふしぎなのだというべきなのではないでしょうか。
読みながらそうじゃないかなとおもってよんでいったのに、よみおわったあとにまったく反対のちがう地点につれていかれてしまう。つまり、よむたびに構造がかわる仕掛けをほどこされてしまっている。
そういう構造に対してひじょうに敏感だったのが、そして構造のふしぎさを鋭敏につかいつつ詠み込んでいったのが笹井宏之という歌人だったのではないかとおもうのです。
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