【感想】丸めたらかたつむりにもなるだろうきみの手紙の意地っぱり、ちっ 加藤治郎
- 2014/08/07
- 21:16
丸めたらかたつむりにもなるだろうきみの手紙の意地っぱり、ちっ 加藤治郎
風の日のダンスはたぶんでたらめがよくててのひらひっぱりあうよ
【アッチョンブリケってなんだい?】
私が加藤治郎さんの短歌のひとつの好きな部分(かつ学んでる部分)にいい意味での〈喪われなかった幼児性〉があるとおもうんです。幼児的言辞、といったらいいんでしょうか。
たとえば、上の加藤さんの二首ならば、「意地っぱり、ちっ」や「でたらめがよくて」などにかなり砕けたかつやわらかい口語がみられ、「丸めたらかたつむりにもなるだろう」「たぶんでたらめがよくててのひらひっぱりあうよ」という、あえてセンテンスの構築的意志を逸脱していくような〈散漫〉かつ〈気散じ〉的なばらけ感があります。
これをわたしは幼児的言辞ととりあえず呼んでみたいとおもいます。語り手と読み手が一致せず、言語の使用において、ずれるような言辞です。たとえば、目の前のひとから「あれが、ほちいの……」といわれたときに、境界線がひかれるようなずれのことです。ブラックジャックをならってもしかしたらピノコ的アッチョンブリケ主体とよんでもいいかもしれません(もしかしたら〈幼児的言辞〉ではなく、マンガの言辞(とくに〈少女マンガジャンル〉からの言辞の流入かんがえるべきなのかもという思いもあります)。
俳句では、句末に「です」をつければすべてライトヴァース俳句になるのではないかという話もあるそうなのですが、私はこの幼児的言辞も実は短歌におけるライトヴァースともしかしたら関わっているのではないかと思ったりすることがあります。
ちなみに加藤治郎さん自身はライトヴァースの始発を「現代短歌の出発点を、俵万智『サラダ記念日』(1987)、穂村弘『シンジケート』(1990)を含めたライトバース世代の登場におきたい」『短歌年鑑平成18』とみています。ここに穂村さんがいるのが大事だとおもっていて、実は幼児的言辞は穂村弘さんにも共通してみられることだとおもうからです。たとえば、
冷凍睡眠から覚めて、五月かな?十月かな?って一緒に思お 穂村弘
この歌においては、この「思お」がこの歌のことばの位相を決定しているようにおもうんです(冷凍睡眠というメディアによって語り手の言辞が〈幼児化〉したのかもしれないけれど)。
そもそもライトヴァースとはなにかという話なんですが、訳語も種々雑多であり、意味も多義的かつジャンルによって定義が異なってくるため定義自体をはねのける〈曖昧なふくろのような定義〉として機能しつづけてきた包括的なタームだったとおもうんですが、おおきく定義してみると沢崎順之助さんが『文芸用語の基礎知識』で述べているような「芸術、前衛、難解、深刻、高尚ぶらない種類のもの」というふうにいえるのではないかとおもうのです。あえていいかえてみるならば、〈大衆の受容できる形態〉です。
で、このライトヴァースをさらに過激化したかたちが幼児的言辞だったのではないかと少しおもうのです。なぶなら〈幼児〉とはプレ大衆だからです。いまだ大衆ではないものの、潜在的大衆であり、また大衆とはかつて幼児だった集合的ななにかです。
ですから、この幼児的言辞は、ライトヴァースという大衆性をとおしてはじめて〈発見〉できたものだったのではないかとおもうのです。あえていうならばウルトラライトヴァースといったような。
そしてこの幼児的言辞が大事なのは、意味や伝達を志向するというよりは、歌そのものの言語もしくは言語構築への志向性だとおもいます。こころへの意志、ではなくて、ことばへの意志です。
つまり、歌はライトヴァースによって大衆化したものの、言語志向性を過激に取り込んでいくことによって、大衆化することによって逆に言語レベルでは素直に読み手に大衆的に伝達されえないような多層化した側面をみせていったのではないかとおもうのです。
そしてそこに加藤さんのひとつの短歌の側面があったのではないかとおもうのです。ライトヴァースは、口語化し大衆化した一方で、やわらかいことばを使うことで、あえてことばの構築性そのものに意識化せざるをえなくなったそういう〈非大衆〉的な側面を同時に取り込んでいったのではないかとおもうのです。
みみたぶのひらひらあそぶ廃墟かなどっこかでどっこかでエンゼルが 加藤治郎
【ライト・ヴァース】
厳密な定義はないが、重い主題を抱えている詩に対して、軽妙な調子で、機知、ユーモア、滑稽を意図し、技法の巧みさを見せるため厳格に詩型を守ったり、押韻に工夫を凝らしたりしている詩のこと。
ギリシャ古典詩のエピグラム、フランス詩のロンド、ヴェール・ドゥ・ソシエテ(社交詩)、イギリスのリメリック、ナースリー・ライム、また言葉遊びや謎々の詩、ノンセンス詩、風刺詩等々。実作者としては、ルイス・キャロル、オーデン等が挙げられる。
日本では、1975年出版された清水哲男の詩集『スピーチ・バルーン』が、そう呼ばれた。
例えば「ミッキー・マウス」という作品において、消防夫でも機関士でも何でもあり得るミッキーという主体の在りようは、主体というものを通して近代の脱構築を図っている。短歌では、80年代後半に現れた口語体の、現代的な都市の感性の肯定的な隠喩としての作品をいう。
香川ヒサ『現代短歌ハンドブック』
風の日のダンスはたぶんでたらめがよくててのひらひっぱりあうよ
【アッチョンブリケってなんだい?】
私が加藤治郎さんの短歌のひとつの好きな部分(かつ学んでる部分)にいい意味での〈喪われなかった幼児性〉があるとおもうんです。幼児的言辞、といったらいいんでしょうか。
たとえば、上の加藤さんの二首ならば、「意地っぱり、ちっ」や「でたらめがよくて」などにかなり砕けたかつやわらかい口語がみられ、「丸めたらかたつむりにもなるだろう」「たぶんでたらめがよくててのひらひっぱりあうよ」という、あえてセンテンスの構築的意志を逸脱していくような〈散漫〉かつ〈気散じ〉的なばらけ感があります。
これをわたしは幼児的言辞ととりあえず呼んでみたいとおもいます。語り手と読み手が一致せず、言語の使用において、ずれるような言辞です。たとえば、目の前のひとから「あれが、ほちいの……」といわれたときに、境界線がひかれるようなずれのことです。ブラックジャックをならってもしかしたらピノコ的アッチョンブリケ主体とよんでもいいかもしれません(もしかしたら〈幼児的言辞〉ではなく、マンガの言辞(とくに〈少女マンガジャンル〉からの言辞の流入かんがえるべきなのかもという思いもあります)。
俳句では、句末に「です」をつければすべてライトヴァース俳句になるのではないかという話もあるそうなのですが、私はこの幼児的言辞も実は短歌におけるライトヴァースともしかしたら関わっているのではないかと思ったりすることがあります。
ちなみに加藤治郎さん自身はライトヴァースの始発を「現代短歌の出発点を、俵万智『サラダ記念日』(1987)、穂村弘『シンジケート』(1990)を含めたライトバース世代の登場におきたい」『短歌年鑑平成18』とみています。ここに穂村さんがいるのが大事だとおもっていて、実は幼児的言辞は穂村弘さんにも共通してみられることだとおもうからです。たとえば、
冷凍睡眠から覚めて、五月かな?十月かな?って一緒に思お 穂村弘
この歌においては、この「思お」がこの歌のことばの位相を決定しているようにおもうんです(冷凍睡眠というメディアによって語り手の言辞が〈幼児化〉したのかもしれないけれど)。
そもそもライトヴァースとはなにかという話なんですが、訳語も種々雑多であり、意味も多義的かつジャンルによって定義が異なってくるため定義自体をはねのける〈曖昧なふくろのような定義〉として機能しつづけてきた包括的なタームだったとおもうんですが、おおきく定義してみると沢崎順之助さんが『文芸用語の基礎知識』で述べているような「芸術、前衛、難解、深刻、高尚ぶらない種類のもの」というふうにいえるのではないかとおもうのです。あえていいかえてみるならば、〈大衆の受容できる形態〉です。
で、このライトヴァースをさらに過激化したかたちが幼児的言辞だったのではないかと少しおもうのです。なぶなら〈幼児〉とはプレ大衆だからです。いまだ大衆ではないものの、潜在的大衆であり、また大衆とはかつて幼児だった集合的ななにかです。
ですから、この幼児的言辞は、ライトヴァースという大衆性をとおしてはじめて〈発見〉できたものだったのではないかとおもうのです。あえていうならばウルトラライトヴァースといったような。
そしてこの幼児的言辞が大事なのは、意味や伝達を志向するというよりは、歌そのものの言語もしくは言語構築への志向性だとおもいます。こころへの意志、ではなくて、ことばへの意志です。
つまり、歌はライトヴァースによって大衆化したものの、言語志向性を過激に取り込んでいくことによって、大衆化することによって逆に言語レベルでは素直に読み手に大衆的に伝達されえないような多層化した側面をみせていったのではないかとおもうのです。
そしてそこに加藤さんのひとつの短歌の側面があったのではないかとおもうのです。ライトヴァースは、口語化し大衆化した一方で、やわらかいことばを使うことで、あえてことばの構築性そのものに意識化せざるをえなくなったそういう〈非大衆〉的な側面を同時に取り込んでいったのではないかとおもうのです。
みみたぶのひらひらあそぶ廃墟かなどっこかでどっこかでエンゼルが 加藤治郎
【ライト・ヴァース】
厳密な定義はないが、重い主題を抱えている詩に対して、軽妙な調子で、機知、ユーモア、滑稽を意図し、技法の巧みさを見せるため厳格に詩型を守ったり、押韻に工夫を凝らしたりしている詩のこと。
ギリシャ古典詩のエピグラム、フランス詩のロンド、ヴェール・ドゥ・ソシエテ(社交詩)、イギリスのリメリック、ナースリー・ライム、また言葉遊びや謎々の詩、ノンセンス詩、風刺詩等々。実作者としては、ルイス・キャロル、オーデン等が挙げられる。
日本では、1975年出版された清水哲男の詩集『スピーチ・バルーン』が、そう呼ばれた。
例えば「ミッキー・マウス」という作品において、消防夫でも機関士でも何でもあり得るミッキーという主体の在りようは、主体というものを通して近代の脱構築を図っている。短歌では、80年代後半に現れた口語体の、現代的な都市の感性の肯定的な隠喩としての作品をいう。
香川ヒサ『現代短歌ハンドブック』
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