【感想】なかはられいこ「黄身つぶす派」『川柳ねじまき #1』
- 2014/08/07
- 21:25
黄身つぶす派のひともいて冬のそら なかはられいこ
【初音ミク plays 川柳】
『川柳ねじまき#1』(2014年7月)を読んでいるのですが(少しずつ感想を書いていこうと思っています)、最初におかれているのがなかはられいこさんの「黄身つぶす派」です。ですからいちばん最初になかはらさんの感想を書いてみたいとおもいます。
なかはらさんがご自身のことばで「作品は書かれた瞬間に過去になる。わたしの過去である『黄身つぶす派』の三十句が、読み手であるだれかの現在になる瞬間を、どきどきしながら待っている。そうだ、額田王ではなくて、いっそ初音ミクを目指そう。ボーカロイド上等!」と述べられているのですが、私はけっこうこれは川柳にとってとても意味の深いことばではないかとおもうのです。
初音ミクについてときどき考えているんですが、初音ミクの特徴はなにかといえば、それは〈遍在〉と〈偏在〉を一身にひきうける主体だったと思うんですね。初音ミクはボーカロイドであり、声であるので、誰の歌でもうたうことができ、またデータとしてどこに降り立つこともできます(遍在)。しかし聴き手は〈いま・ここ〉にいる〈ひとり〉の初音ミクとして享受しています(偏在)。それは音声データではなくて、そこに歌う主体が確立しているということです(音素と電子の集まりが人称化されてしまったのは〈初音ミク〉というおそらくは文学的〈事件〉です)。
川柳もこれと似たところがあるのではないかとおもうのです。川柳において世界はよく〈人称化〉します。たとえば今回の『ねじまき』のなかはらさんの句から例をとるならば、
霜になる途中の声で電話くる
鯉が来て鳩が来て広東語をしゃべる
空が来て何を書いてもいいと言う
非常口の緑の人と森へゆく
家中のほこりがみんなもらい泣き
地図上のどこに触れても痛いと言う
あきらめて人のかたちにもどる影
なかはられいこ「黄身つぶす派」『川柳ねじまき』
これらはおどろくことに、ほとんどが出来事としての〈初音ミク〉なのです。つまり、世界の事物が人称化されているのです。世界の事物が人称化されるということは、世界として〈遍在〉化しつつも、〈ひとり〉として〈いま・ここ〉に〈偏在〉するということです。
わたしはここに川柳のひとつの特徴をみています。世界の人称化にたちあうこと、世界を〈いま・ここ〉の〈ひとり〉として語るちからを。
世界のそこかしこに遍在しながらも、わたしのいま・ここに偏在する主体。「あきらめながらあきらめていない人、それは、川柳作家であり、川柳の読者であり、あなたやわたしであり、なかはられいこ自身でもある」(荻原裕幸)そのような主体。
それが実践される/たひとつの川柳主体のかたちだったのではないかとおもうのです。
最後にわたしが以前からずっと考えているなかはらさんの句を。
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
【初音ミク plays 川柳】
『川柳ねじまき#1』(2014年7月)を読んでいるのですが(少しずつ感想を書いていこうと思っています)、最初におかれているのがなかはられいこさんの「黄身つぶす派」です。ですからいちばん最初になかはらさんの感想を書いてみたいとおもいます。
なかはらさんがご自身のことばで「作品は書かれた瞬間に過去になる。わたしの過去である『黄身つぶす派』の三十句が、読み手であるだれかの現在になる瞬間を、どきどきしながら待っている。そうだ、額田王ではなくて、いっそ初音ミクを目指そう。ボーカロイド上等!」と述べられているのですが、私はけっこうこれは川柳にとってとても意味の深いことばではないかとおもうのです。
初音ミクについてときどき考えているんですが、初音ミクの特徴はなにかといえば、それは〈遍在〉と〈偏在〉を一身にひきうける主体だったと思うんですね。初音ミクはボーカロイドであり、声であるので、誰の歌でもうたうことができ、またデータとしてどこに降り立つこともできます(遍在)。しかし聴き手は〈いま・ここ〉にいる〈ひとり〉の初音ミクとして享受しています(偏在)。それは音声データではなくて、そこに歌う主体が確立しているということです(音素と電子の集まりが人称化されてしまったのは〈初音ミク〉というおそらくは文学的〈事件〉です)。
川柳もこれと似たところがあるのではないかとおもうのです。川柳において世界はよく〈人称化〉します。たとえば今回の『ねじまき』のなかはらさんの句から例をとるならば、
霜になる途中の声で電話くる
鯉が来て鳩が来て広東語をしゃべる
空が来て何を書いてもいいと言う
非常口の緑の人と森へゆく
家中のほこりがみんなもらい泣き
地図上のどこに触れても痛いと言う
あきらめて人のかたちにもどる影
なかはられいこ「黄身つぶす派」『川柳ねじまき』
これらはおどろくことに、ほとんどが出来事としての〈初音ミク〉なのです。つまり、世界の事物が人称化されているのです。世界の事物が人称化されるということは、世界として〈遍在〉化しつつも、〈ひとり〉として〈いま・ここ〉に〈偏在〉するということです。
わたしはここに川柳のひとつの特徴をみています。世界の人称化にたちあうこと、世界を〈いま・ここ〉の〈ひとり〉として語るちからを。
世界のそこかしこに遍在しながらも、わたしのいま・ここに偏在する主体。「あきらめながらあきらめていない人、それは、川柳作家であり、川柳の読者であり、あなたやわたしであり、なかはられいこ自身でもある」(荻原裕幸)そのような主体。
それが実践される/たひとつの川柳主体のかたちだったのではないかとおもうのです。
最後にわたしが以前からずっと考えているなかはらさんの句を。
行かないと思う中国も天国も なかはられいこ
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