【感想】二村鉄子「ぽぽいのぽい」『川柳ねじまき#1』
- 2014/08/09
- 00:47
油っぽいぽいぽいぽぽいのぽいぽいっ 二村鉄子
【〈ぽい〉という〈主題〉】
俳人(二村典子)でもある二村鉄子さんの川柳です。
さいきん俳句の勉強をしていて思ったことなんですが、俳句っていうのはいかに散文的な流れをせきとめるか、散文脈を断ち切るか、散文的感性の生成をとめるか、ということにある表現行為のように思うんですね。
だから感想文なんかがたちいるすきがないくらいに、それは文章としての感性に対して無機的だとおもうんですよ。思い直してみると、唯物的な映画といわれるストローブ=ユイレやロベール・ブレッソンやミヒャエル・ハネケの映画もみてて感想文を非常に書きにくい映画なんですが、それっていま思うと、〈感情=抒情〉を注意深く排除した語り=カメラのせいで散文脈がたちいるすきがなかったってことなんですよね。きっと。
だからこれは二村鉄子さん自身がおっしゃっているように、俳句は「主題がない感じ」がする、というのも〈主題〉というのが散文脈を生成するとっかかりになるからだともおもうんです。
で、そうした〈俳〉の観点がとりいれられた川柳を実践しているのが二村さんの川柳なのではないかとおもいます。冒頭にあげた表題句も、〈意味〉が寄せ付けないようにつくられていますよね。
で、たとえばですね、このことはおなじねじまきの他の句と比較するとよくわかるとおもいます。八上桐子さんの句で「歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ」という句を紹介しましたが、おなじ「ふくらはぎ」を詠んでも二村鉄子さんは、
フランスの普通の人のふくらはぎ 二村鉄子
になるんです。八上さんの句は「歩いたことないリカちゃん」に語り手の〈抒情〉があるとおもうんですが、二村さんの場合、「普通の人」と〈普通〉を前景化することで〈内面〉を排除しています。
すこしそうした〈内面〉をはねつける句を連から抜き出してみます。
あんぱんはジャムパンでなくておいしい
ヨーグルトこぼしたけれどよくふいた
大中小小中高の雨の音
道に落ちている鳥の落ちている道
中空にシュークリームが浮いている
カントの〈物自体〉のように意味への翻訳を許さないような〈これだけ〉で存立している感じが強い句を抜いてみました。
ただ、ですね。俳句の場合は、〈季語〉があるので〈季語〉が点としての句の地平をひらいていくとおもうんですが、川柳にはその地平への裂け目のようなものがありません。だとしたら、二村さんの川柳にとって地平をひらく裂け目とはなんなのか。
それは、定型だとおもうんですよね。
二村さんはすごく独特な定型の使い方をされるひとで、だからわたしは二村さんの川柳の主題をあえてあげるならば、定型ではないかとおもうんです。
無機質な映画をつくるミヒャエル・ハネケが、おどろくほど長い長回しのシーンをつくっているように、二村さんの川柳においてもおどろくような定型の使い方=長回しがみられます。
化けるマッチ棒化けないマッチ棒化けたマッチ棒 二村鉄子
【〈ぽい〉という〈主題〉】
俳人(二村典子)でもある二村鉄子さんの川柳です。
さいきん俳句の勉強をしていて思ったことなんですが、俳句っていうのはいかに散文的な流れをせきとめるか、散文脈を断ち切るか、散文的感性の生成をとめるか、ということにある表現行為のように思うんですね。
だから感想文なんかがたちいるすきがないくらいに、それは文章としての感性に対して無機的だとおもうんですよ。思い直してみると、唯物的な映画といわれるストローブ=ユイレやロベール・ブレッソンやミヒャエル・ハネケの映画もみてて感想文を非常に書きにくい映画なんですが、それっていま思うと、〈感情=抒情〉を注意深く排除した語り=カメラのせいで散文脈がたちいるすきがなかったってことなんですよね。きっと。
だからこれは二村鉄子さん自身がおっしゃっているように、俳句は「主題がない感じ」がする、というのも〈主題〉というのが散文脈を生成するとっかかりになるからだともおもうんです。
で、そうした〈俳〉の観点がとりいれられた川柳を実践しているのが二村さんの川柳なのではないかとおもいます。冒頭にあげた表題句も、〈意味〉が寄せ付けないようにつくられていますよね。
で、たとえばですね、このことはおなじねじまきの他の句と比較するとよくわかるとおもいます。八上桐子さんの句で「歩いたことないリカちゃんのふくらはぎ」という句を紹介しましたが、おなじ「ふくらはぎ」を詠んでも二村鉄子さんは、
フランスの普通の人のふくらはぎ 二村鉄子
になるんです。八上さんの句は「歩いたことないリカちゃん」に語り手の〈抒情〉があるとおもうんですが、二村さんの場合、「普通の人」と〈普通〉を前景化することで〈内面〉を排除しています。
すこしそうした〈内面〉をはねつける句を連から抜き出してみます。
あんぱんはジャムパンでなくておいしい
ヨーグルトこぼしたけれどよくふいた
大中小小中高の雨の音
道に落ちている鳥の落ちている道
中空にシュークリームが浮いている
カントの〈物自体〉のように意味への翻訳を許さないような〈これだけ〉で存立している感じが強い句を抜いてみました。
ただ、ですね。俳句の場合は、〈季語〉があるので〈季語〉が点としての句の地平をひらいていくとおもうんですが、川柳にはその地平への裂け目のようなものがありません。だとしたら、二村さんの川柳にとって地平をひらく裂け目とはなんなのか。
それは、定型だとおもうんですよね。
二村さんはすごく独特な定型の使い方をされるひとで、だからわたしは二村さんの川柳の主題をあえてあげるならば、定型ではないかとおもうんです。
無機質な映画をつくるミヒャエル・ハネケが、おどろくほど長い長回しのシーンをつくっているように、二村さんの川柳においてもおどろくような定型の使い方=長回しがみられます。
化けるマッチ棒化けないマッチ棒化けたマッチ棒 二村鉄子
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