【感想】魚澄秋来「由緒正しき雨」『川柳ねじまき#1』
- 2014/08/09
- 08:06
いつかまた由緒正しき雨が降る 魚澄秋来
【定型の由緒をゆらす】
魚澄さんの「由緒正しき雨」にはとてもふしぎな定型のありかたが出てくるんです。ちなみにこの連にはこんな77句があります。
ソーダの様な約束をして
575ではなく、77句です。でもこれは575の連のなかでひとつぽんと放り込まれているのでけっこうな衝撃です。がつんと炭酸水のパンチをくらったような感じさえします。
ここらへんに「由緒正しくない」定型観のヒントがありそうです。つまり、魚澄さんの川柳においては定型とは選択的なものであり偶有的なものであるということです。
実際、定型は、ゆれています。
三月のさよなら四月のしろい雨
白線のしだいに汚れていくあした
「レッドデータブック」に載せたい男○つける
こう見えて煩悶している夾竹桃
続くこととつづけることとに挟まれて
魚澄さんの川柳においては通常忌避されがちな中八が惜しげもなくまるでそれが〈由緒〉であるかのように使われているのです。
この事態を読み手はどうかんがえたらいいんでしょう。
中七が尊重されるのはそれが句の幹=ボディをなしているからだとおもうんですね。中七が中八になってしまうと、なめらかな音律が崩れてしまう。
たださきほどあげた中八の句をみてみると、「さよなら」や「汚れていく」「『レッドデータブック』」「煩悶している」「挟まれて」といった負の記号が多いことに気づきます。むしろそれはボディのゆれとして体現されざるをえないようななにかのようなのです。
わたしたちは短詩型を読むときに〈なめらかさ〉をどこかで特権化してあらかじめかんがえています。しかし〈息苦しさ〉を基本に据えた定型観があってもいいのではないかとおもうんですね。ハードで、荒行のような、定型観です。もしかしたら育たないかもしれません。拒絶されるかもしれないし、糾弾されるかもしれません。わたしたちは〈息苦しさ〉を学習しようとしないし、記憶しようとしないし、体系化しようともしません。でもデリダやサイードが実践してきたように二項対立は往々にして対立している一方をみずからの隠れた根拠としています。〈なめらかさ〉を成り立たせているのはおそらくは〈息苦しさ〉の体系でしょう。ですから、どこかで〈息苦しさ〉としての定型観をかんがえてみてもいいのではないかともおもうのです。いきづらさ=イキ・ヅラサとして。
そんなことを魚澄さんの川柳からかんがえました。
いきぐるしく、記憶されやすい形態をあんいにとらないかたちでもって、にもかかわらず記憶の問題系を喚起すること。
鉄線の咲いてたことだけおぼえてて 魚澄秋来
【定型の由緒をゆらす】
魚澄さんの「由緒正しき雨」にはとてもふしぎな定型のありかたが出てくるんです。ちなみにこの連にはこんな77句があります。
ソーダの様な約束をして
575ではなく、77句です。でもこれは575の連のなかでひとつぽんと放り込まれているのでけっこうな衝撃です。がつんと炭酸水のパンチをくらったような感じさえします。
ここらへんに「由緒正しくない」定型観のヒントがありそうです。つまり、魚澄さんの川柳においては定型とは選択的なものであり偶有的なものであるということです。
実際、定型は、ゆれています。
三月のさよなら四月のしろい雨
白線のしだいに汚れていくあした
「レッドデータブック」に載せたい男○つける
こう見えて煩悶している夾竹桃
続くこととつづけることとに挟まれて
魚澄さんの川柳においては通常忌避されがちな中八が惜しげもなくまるでそれが〈由緒〉であるかのように使われているのです。
この事態を読み手はどうかんがえたらいいんでしょう。
中七が尊重されるのはそれが句の幹=ボディをなしているからだとおもうんですね。中七が中八になってしまうと、なめらかな音律が崩れてしまう。
たださきほどあげた中八の句をみてみると、「さよなら」や「汚れていく」「『レッドデータブック』」「煩悶している」「挟まれて」といった負の記号が多いことに気づきます。むしろそれはボディのゆれとして体現されざるをえないようななにかのようなのです。
わたしたちは短詩型を読むときに〈なめらかさ〉をどこかで特権化してあらかじめかんがえています。しかし〈息苦しさ〉を基本に据えた定型観があってもいいのではないかとおもうんですね。ハードで、荒行のような、定型観です。もしかしたら育たないかもしれません。拒絶されるかもしれないし、糾弾されるかもしれません。わたしたちは〈息苦しさ〉を学習しようとしないし、記憶しようとしないし、体系化しようともしません。でもデリダやサイードが実践してきたように二項対立は往々にして対立している一方をみずからの隠れた根拠としています。〈なめらかさ〉を成り立たせているのはおそらくは〈息苦しさ〉の体系でしょう。ですから、どこかで〈息苦しさ〉としての定型観をかんがえてみてもいいのではないかともおもうのです。いきづらさ=イキ・ヅラサとして。
そんなことを魚澄さんの川柳からかんがえました。
いきぐるしく、記憶されやすい形態をあんいにとらないかたちでもって、にもかかわらず記憶の問題系を喚起すること。
鉄線の咲いてたことだけおぼえてて 魚澄秋来
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