ギイイイイっと鳴きながら世界のねじを巻くあとがき。
- 2014/08/09
- 19:26
声がするベランダの少し向うから 荻原裕幸
一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある。 ピーター・ブルック『なにもない空間』
【〈なにもない〉がすべてある空間】
今回、『川柳ねじまき#1』を読んで・考えて・書いて、じぶんなりにすごく勉強になったのだが、ひとつ思ったのが、現代川柳の〈ふしぎさ〉は、内容面ではなく、定型にあるんだなと、とても強く実感したことだ。
現代川柳というと、わたしはそのふしぎなシーンの生成にうまみがあるとおもっていて、実際わたしが最初に川柳に惹きつけられたのもそこだった。ふしぎなおいしさがあったのだ。
で、わたしはそこから転倒して、〈ふしぎさ〉を前提にした現代川柳をどこかで考えはじめてしまっていたのだが、でもべつにあらかじめ、よし〈ふしぎ〉でいよう!〈ふしぎ〉にとりくもう!なにしろ〈わたし〉は現代川柳をやっているのだから、とおもう必要はなかったのである。
なぜなら、〈ふしぎさ〉とは内容面ではなく、定型によって、ことばの順列化と限定によって遂行されるものだからだ。ぎゃくに語り手が〈ふしぎさ〉を演出しようとした瞬間に現代川柳は奥行きをうしなってしまうのかもしれないともおもったのだ。ふしぎさとは、ふしぎさにひきずられない〈なにもない〉場所でどれだけ〈耐えぬくか〉ということだったのである。
荻原さんの『川柳ねじまき#1』からの掲句は、その意味でも、定型によるふしぎさが発動している例である。
声がするベランダの少し向うから 荻原裕幸
これはなんのふしぎもないことばだ。ベランダの少し向うから声がすることだってあるだろう。
ところが逆にぶきみなのである。なんにもないところへの語り手の細かい配慮がふしぎでぶきみさをよぶのだ。
たとえば、まず、語り手はこれを定型におとしこんだのであり、そうしてその際に倒置法を選択したのであり、さらに「少し」と語り手と対象の距離感に注意深くなるように読み手に指示したのであり、そしてそれらをとおしてこの〈なんでもないできごと〉を〈なにかに占められているできごと〉として感知している語り手自身をぶきみ/ふしぎに示唆しているのだ。これは、意味内容を伝達するようなコンスタティヴな言語記述というよりは、この〈わたし〉を〈あなた〉はどう受け止めるんですかというパフォーマティヴな言語行為に近いのではないかと。そしてそこに定型が発動する、わたしたちがなにももたなくても定型がすべてをもっているという定型のふしぎさがあるようにおもうのである。
わたしはこれって、ちょっと冒険的ないいかたをしてみると、ガンダムにおけるニュータイプにも近いのではないかとすらおもうのだ。なにもないところにすべてがあることを察知し直感してしまうちから。定型とはそうした直感力を発動してしまうものではないかと思ったりもするのである。
荻原裕幸さんはこの『川柳ねじまき#1』において自身の連の下でこんなふうに語っている。「よし、まとまった、と思う端から、一からやりなおしだ、という気分にもなっている。たぶん、これは、川柳に惹かれた者の宿命なのだろう。きょうの私は、この三十句の中に居る。あすの私は、この三十句には居ない」。
そう、川柳を詠みつづけるとは、「なにもない空間」(ピーター・ブルック)にいつづけるもののことではなかったか。
だから、川柳を詠むということは、ふだんある〈ふしぎさ〉にひきずられず語りもせず〈なにもない空間〉にいまいるこの〈わたし〉を〈わたし〉として耐え抜くことで、逆に定型のもつ〈ふしぎさ〉を引きずり出してしまうことではないかとおもうのだ。
最後まで初心が続く迷路 夏 柳本々々
(『現代川柳綿毛の会』2014年5月)
私が自分の仕事で最も大切にしている指針がある。それは退屈さに対して常に最大の注意を払うことである。演劇において、退屈さというのは最もずる賢い悪魔のようなもので、どこにでも現れうる。
ピーター・ブルック『秘密は何もない』
一人の男がなにもない空間を横切る。それを誰かが見ている。そこに演劇における行為の全てがある。 ピーター・ブルック『なにもない空間』
【〈なにもない〉がすべてある空間】
今回、『川柳ねじまき#1』を読んで・考えて・書いて、じぶんなりにすごく勉強になったのだが、ひとつ思ったのが、現代川柳の〈ふしぎさ〉は、内容面ではなく、定型にあるんだなと、とても強く実感したことだ。
現代川柳というと、わたしはそのふしぎなシーンの生成にうまみがあるとおもっていて、実際わたしが最初に川柳に惹きつけられたのもそこだった。ふしぎなおいしさがあったのだ。
で、わたしはそこから転倒して、〈ふしぎさ〉を前提にした現代川柳をどこかで考えはじめてしまっていたのだが、でもべつにあらかじめ、よし〈ふしぎ〉でいよう!〈ふしぎ〉にとりくもう!なにしろ〈わたし〉は現代川柳をやっているのだから、とおもう必要はなかったのである。
なぜなら、〈ふしぎさ〉とは内容面ではなく、定型によって、ことばの順列化と限定によって遂行されるものだからだ。ぎゃくに語り手が〈ふしぎさ〉を演出しようとした瞬間に現代川柳は奥行きをうしなってしまうのかもしれないともおもったのだ。ふしぎさとは、ふしぎさにひきずられない〈なにもない〉場所でどれだけ〈耐えぬくか〉ということだったのである。
荻原さんの『川柳ねじまき#1』からの掲句は、その意味でも、定型によるふしぎさが発動している例である。
声がするベランダの少し向うから 荻原裕幸
これはなんのふしぎもないことばだ。ベランダの少し向うから声がすることだってあるだろう。
ところが逆にぶきみなのである。なんにもないところへの語り手の細かい配慮がふしぎでぶきみさをよぶのだ。
たとえば、まず、語り手はこれを定型におとしこんだのであり、そうしてその際に倒置法を選択したのであり、さらに「少し」と語り手と対象の距離感に注意深くなるように読み手に指示したのであり、そしてそれらをとおしてこの〈なんでもないできごと〉を〈なにかに占められているできごと〉として感知している語り手自身をぶきみ/ふしぎに示唆しているのだ。これは、意味内容を伝達するようなコンスタティヴな言語記述というよりは、この〈わたし〉を〈あなた〉はどう受け止めるんですかというパフォーマティヴな言語行為に近いのではないかと。そしてそこに定型が発動する、わたしたちがなにももたなくても定型がすべてをもっているという定型のふしぎさがあるようにおもうのである。
わたしはこれって、ちょっと冒険的ないいかたをしてみると、ガンダムにおけるニュータイプにも近いのではないかとすらおもうのだ。なにもないところにすべてがあることを察知し直感してしまうちから。定型とはそうした直感力を発動してしまうものではないかと思ったりもするのである。
荻原裕幸さんはこの『川柳ねじまき#1』において自身の連の下でこんなふうに語っている。「よし、まとまった、と思う端から、一からやりなおしだ、という気分にもなっている。たぶん、これは、川柳に惹かれた者の宿命なのだろう。きょうの私は、この三十句の中に居る。あすの私は、この三十句には居ない」。
そう、川柳を詠みつづけるとは、「なにもない空間」(ピーター・ブルック)にいつづけるもののことではなかったか。
だから、川柳を詠むということは、ふだんある〈ふしぎさ〉にひきずられず語りもせず〈なにもない空間〉にいまいるこの〈わたし〉を〈わたし〉として耐え抜くことで、逆に定型のもつ〈ふしぎさ〉を引きずり出してしまうことではないかとおもうのだ。
最後まで初心が続く迷路 夏 柳本々々
(『現代川柳綿毛の会』2014年5月)
私が自分の仕事で最も大切にしている指針がある。それは退屈さに対して常に最大の注意を払うことである。演劇において、退屈さというのは最もずる賢い悪魔のようなもので、どこにでも現れうる。
ピーター・ブルック『秘密は何もない』
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