【感想】花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった 吉川宏志
- 2014/08/10
- 06:42
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった 吉川宏志
【潜在的多様体としての〈八月六日〉】
短歌結社「塔」の座談会で述べられていた吉川さんの次のことばからはじめてみようとおもいます(http://www.toutankakai.com/cp-bin/kaihouarchive/?eid=1)。
やっぱり、消してる部分ていうのも大切なんですよね。歌集作る時って、選歌があって、成功していない歌から消していくじゃないですか。でも、歌としては消えるんだけど、行間から不思議ににじみ出してくるものなんですよ。沈黙することによる存在感というのがあるわけで。
この吉川さんの「沈黙することによる存在感」、いいかえるなら「沈黙としての存在」っていうのが吉川さんのなかでは割と大事なように思うんですね。「沈黙としての存在」をもうすこしいいかえるなら、それは「ありえたかもしれない偶有性への想像力」といった表現ができるかもしれません。この〈わたし〉がこの〈わたし〉であると同時にこの〈わたし〉がこの〈わたし〉でなかったかもしれないことを考えるパラレルへの想像力です。
たとえば吉川さんの有名な
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった 吉川宏志
という歌がありますがこの歌は「あれより長くても短くても」という花水木の道を迂回しつつ語りながらも唯一無二のそれしかないかたちでの「花水木の道」を歌うことで、潜在的にあらゆる可能態としての「花水木の道」をふくみながらもそのすべてを取捨できなかった、たったひとつの「愛」の道として「花水木の道」が浮かび出されるようになっているとおもうんです。
またこの歌は大幅な破調をしているとおもうんですが、それもまた「この道しかありえなかったんだ」という基本的な定型を潜在的に含み込みながらも破調するという〈パラレルへの想像力〉を含んだ短歌になっているとおもいます。
で、ですね。この観点からもうひとつかんがえてみたい吉川さんの歌があるんです。
戦前の歌集を読めばただ暑き日として過ぐる八月六日 吉川宏志
この歌も花水木の歌のように構造として偶有性への想像力をめぐる歌になっているとおもうんです。さまざまにありえた「八月六日」の可能態が〈戦争〉を通過することにより〈戦前/戦後〉と言説によって分割され、〈そうでしかない可能態〉としてなかば〈暴力的・政治的〉に措定されていく。ところが語り手はそのような措定するちからをもつことば=テクスト=歌集をとおしてパラレルへの想像力、ありえたかもしれない可能性、さまざまな「八月六日」への可能態への想像力を「ただ暑き日」と《あえて》措定しないことによって喚起しているとおもうんですね。
唐突ですがこの偶有的想像力というのは、他の文化の文脈に眼をうつしてみるとたとえば『天元突破グレンラガン』や『魔法少女まどか☆マギカ』などのアニメーションに主題としてみられたりもします。それはキャラクターがありえたかもしれない世界を同時多発的にめぐることによってキャラクターが生成されるプロセス、もっといえば生成に積極的に参加しているオーディエンスも含めてのキャラクター論を展開しているのではないかとおもうんです。
そしてそうした文脈からもういちど吉川さんの歌にたちかえったときに、この「八月六日」の歌もこの語り手が「歌集」の〈読者〉としてこの歌を生成しているように、〈わたしたち〉オーディエンスをめぐる問題圏をも含んでいるようにおもいます。つまり、「八月六日」をいつ・だれが・だれとして・どこから・なぜ・どのように語るのか、言語化するのか、言説化するのかといった問題です。そしてそれをまったくおなじふうにいつ・だれが・だれとして・どこから・なぜ・どのように受容しているのかといった問題もふくんでいるようにおもいます。
読み手をめぐる意味生成のありかたを、語り手自身のパラレル=偶有性からかんがえてみること。
わたしがよく思い出している吉川さんのことばを最後に置きたいとおもいます。読み手をふくめた偶有的な言説のたてかた、読み手を放っておかないことばのありかたをかんがえるということ。
良い評論とは、正しい結論が書かれた文章なのではない。結論を強引に押しつけたりせず、読者も一緒になって、対話をするように思索を続けること。 吉川宏志『角川短歌2012/8』
【潜在的多様体としての〈八月六日〉】
短歌結社「塔」の座談会で述べられていた吉川さんの次のことばからはじめてみようとおもいます(http://www.toutankakai.com/cp-bin/kaihouarchive/?eid=1)。
やっぱり、消してる部分ていうのも大切なんですよね。歌集作る時って、選歌があって、成功していない歌から消していくじゃないですか。でも、歌としては消えるんだけど、行間から不思議ににじみ出してくるものなんですよ。沈黙することによる存在感というのがあるわけで。
この吉川さんの「沈黙することによる存在感」、いいかえるなら「沈黙としての存在」っていうのが吉川さんのなかでは割と大事なように思うんですね。「沈黙としての存在」をもうすこしいいかえるなら、それは「ありえたかもしれない偶有性への想像力」といった表現ができるかもしれません。この〈わたし〉がこの〈わたし〉であると同時にこの〈わたし〉がこの〈わたし〉でなかったかもしれないことを考えるパラレルへの想像力です。
たとえば吉川さんの有名な
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった 吉川宏志
という歌がありますがこの歌は「あれより長くても短くても」という花水木の道を迂回しつつ語りながらも唯一無二のそれしかないかたちでの「花水木の道」を歌うことで、潜在的にあらゆる可能態としての「花水木の道」をふくみながらもそのすべてを取捨できなかった、たったひとつの「愛」の道として「花水木の道」が浮かび出されるようになっているとおもうんです。
またこの歌は大幅な破調をしているとおもうんですが、それもまた「この道しかありえなかったんだ」という基本的な定型を潜在的に含み込みながらも破調するという〈パラレルへの想像力〉を含んだ短歌になっているとおもいます。
で、ですね。この観点からもうひとつかんがえてみたい吉川さんの歌があるんです。
戦前の歌集を読めばただ暑き日として過ぐる八月六日 吉川宏志
この歌も花水木の歌のように構造として偶有性への想像力をめぐる歌になっているとおもうんです。さまざまにありえた「八月六日」の可能態が〈戦争〉を通過することにより〈戦前/戦後〉と言説によって分割され、〈そうでしかない可能態〉としてなかば〈暴力的・政治的〉に措定されていく。ところが語り手はそのような措定するちからをもつことば=テクスト=歌集をとおしてパラレルへの想像力、ありえたかもしれない可能性、さまざまな「八月六日」への可能態への想像力を「ただ暑き日」と《あえて》措定しないことによって喚起しているとおもうんですね。
唐突ですがこの偶有的想像力というのは、他の文化の文脈に眼をうつしてみるとたとえば『天元突破グレンラガン』や『魔法少女まどか☆マギカ』などのアニメーションに主題としてみられたりもします。それはキャラクターがありえたかもしれない世界を同時多発的にめぐることによってキャラクターが生成されるプロセス、もっといえば生成に積極的に参加しているオーディエンスも含めてのキャラクター論を展開しているのではないかとおもうんです。
そしてそうした文脈からもういちど吉川さんの歌にたちかえったときに、この「八月六日」の歌もこの語り手が「歌集」の〈読者〉としてこの歌を生成しているように、〈わたしたち〉オーディエンスをめぐる問題圏をも含んでいるようにおもいます。つまり、「八月六日」をいつ・だれが・だれとして・どこから・なぜ・どのように語るのか、言語化するのか、言説化するのかといった問題です。そしてそれをまったくおなじふうにいつ・だれが・だれとして・どこから・なぜ・どのように受容しているのかといった問題もふくんでいるようにおもいます。
読み手をめぐる意味生成のありかたを、語り手自身のパラレル=偶有性からかんがえてみること。
わたしがよく思い出している吉川さんのことばを最後に置きたいとおもいます。読み手をふくめた偶有的な言説のたてかた、読み手を放っておかないことばのありかたをかんがえるということ。
良い評論とは、正しい結論が書かれた文章なのではない。結論を強引に押しつけたりせず、読者も一緒になって、対話をするように思索を続けること。 吉川宏志『角川短歌2012/8』
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