【感想】たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く 加藤治郎
- 2014/08/11
- 01:13
たぶんゆめのレプリカだから水滴のいっぱいついた刺草を抱く 加藤治郎
【〈たぶん〉という〈リアル〉】
刺草(イラクサ)っていうのは別名「イタイタグサ」ともいうように、とげに触れると痛く、水疱ができるくらいの毒性の強い草です。かなりの激痛であり、ともかく触れるだけでいつまでも痛みがつづいてしまうくらい〈タッチへのタブー〉としてあるのがイラクサだとおもうんです。
だからこれはそうしたイラクサのコードをとりいれるとおそろしい歌だとおもうんです。「刺草を抱く」って行為は、語り手の全身に痛みをゆきわたらせることです。そしてだからこその初句の語り手の「たぶん」という推量の副詞がでてきます。イラクサだけれども、でも、ゆめの模造品なのだから、それはイラクサにみえてイラクサじゃないだろうから抱いても大丈夫だろうという語り手の〈認識〉です。
わたしはこの歌のポイントはこの〈認識〉をひきおこしている「たぶん~だから」にあるとおもいます。こうした語り方によって語り手が提示しているのは、認識の未決定性のなかでゆれている世界です。認識は「たぶん」という蓋然性でしかありえないなかで、しかし語り手はイラクサを「抱く」という痛みとしては決定的な痛むか・痛まないかというゼロワンの行為に下の句で踏み出しています。
この「たぶん」と「抱く」といった想像的な領域と現実的な領域のズレと接合がこの語り手の〈命がけの意味的跳躍〉としてあらわれているのではないかとおもうのです。
「水滴のいっぱいついた刺草」という語り手のイラクサの描写にも注目したいとおもいます。イラクサの葉にはトゲが葉の表面からこちらをつらぬくように点在しているのですが、おそらく水滴はこのトゲにつらぬかれた状態で付着している。水滴の球を長くするどいイラクサのトゲがつらぬいている。それを語り手は〈わざわざ〉描写している点に注意したいのです。
つまりですね、語り手は実はこれからわが身が引き受けなければいけない〈痛み〉を描写によって予期してしまっているんじゃないか、これが実は「ゆめ」ではないかということを語り手自身が〈語っ〉てしまったのではないか。
けれども、語り手はある状況をまだ受け入れられずになんとか言語的に「たぶんゆめだから」と措定しようとしているのではないか。しかし全身の痛みは言語をはねつけ、リアルな痛みの描写としてそれは先行してしまったのではないか。
そんなふうな、言語でさえ抑圧できない痛みがあるんだ、という歌なのではないかとおもうのです。この歌は。
ですから、語り手がしようとしたことは、もしかしたら、その痛みのレプリカをつくることだったのではないか。しかし、はからずも語り手はその痛みのレプリカを歌として生成していく過程において、その痛みをひきうけざるをえないようなかたちとしてわが身にひきうけることを選んだのではないか。
これはそんな、レプリカを志向しつつレプリカになりえない痛みをひきうける歌のようにおもうのです。
いつかぼくは救われるだろうたぶんそこは小雨のなかの電気椅子だろう 加藤治郎
【〈たぶん〉という〈リアル〉】
刺草(イラクサ)っていうのは別名「イタイタグサ」ともいうように、とげに触れると痛く、水疱ができるくらいの毒性の強い草です。かなりの激痛であり、ともかく触れるだけでいつまでも痛みがつづいてしまうくらい〈タッチへのタブー〉としてあるのがイラクサだとおもうんです。
だからこれはそうしたイラクサのコードをとりいれるとおそろしい歌だとおもうんです。「刺草を抱く」って行為は、語り手の全身に痛みをゆきわたらせることです。そしてだからこその初句の語り手の「たぶん」という推量の副詞がでてきます。イラクサだけれども、でも、ゆめの模造品なのだから、それはイラクサにみえてイラクサじゃないだろうから抱いても大丈夫だろうという語り手の〈認識〉です。
わたしはこの歌のポイントはこの〈認識〉をひきおこしている「たぶん~だから」にあるとおもいます。こうした語り方によって語り手が提示しているのは、認識の未決定性のなかでゆれている世界です。認識は「たぶん」という蓋然性でしかありえないなかで、しかし語り手はイラクサを「抱く」という痛みとしては決定的な痛むか・痛まないかというゼロワンの行為に下の句で踏み出しています。
この「たぶん」と「抱く」といった想像的な領域と現実的な領域のズレと接合がこの語り手の〈命がけの意味的跳躍〉としてあらわれているのではないかとおもうのです。
「水滴のいっぱいついた刺草」という語り手のイラクサの描写にも注目したいとおもいます。イラクサの葉にはトゲが葉の表面からこちらをつらぬくように点在しているのですが、おそらく水滴はこのトゲにつらぬかれた状態で付着している。水滴の球を長くするどいイラクサのトゲがつらぬいている。それを語り手は〈わざわざ〉描写している点に注意したいのです。
つまりですね、語り手は実はこれからわが身が引き受けなければいけない〈痛み〉を描写によって予期してしまっているんじゃないか、これが実は「ゆめ」ではないかということを語り手自身が〈語っ〉てしまったのではないか。
けれども、語り手はある状況をまだ受け入れられずになんとか言語的に「たぶんゆめだから」と措定しようとしているのではないか。しかし全身の痛みは言語をはねつけ、リアルな痛みの描写としてそれは先行してしまったのではないか。
そんなふうな、言語でさえ抑圧できない痛みがあるんだ、という歌なのではないかとおもうのです。この歌は。
ですから、語り手がしようとしたことは、もしかしたら、その痛みのレプリカをつくることだったのではないか。しかし、はからずも語り手はその痛みのレプリカを歌として生成していく過程において、その痛みをひきうけざるをえないようなかたちとしてわが身にひきうけることを選んだのではないか。
これはそんな、レプリカを志向しつつレプリカになりえない痛みをひきうける歌のようにおもうのです。
いつかぼくは救われるだろうたぶんそこは小雨のなかの電気椅子だろう 加藤治郎
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