【感想】「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている 我妻俊樹
- 2014/08/11
- 05:54
「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている 我妻俊樹
【短歌こわい(not こわい短歌)】
我妻さんは歌人かつ怪談作家でもあるんですが、我妻さんの短歌のもつこわさの根っこにどうも〈桎梏〉=みもふたもなく結ばれてしまってあることがあるんじゃないかとおもうんですね。そのような歌をほかにも我妻さんの短歌からすこしあげてみます。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう
風船になって椅子にむすばれている、どこにも出ない道からやって来ての握手、逃れないあなたと朝までつづく廊下。
これらの短歌にはこうしたどこにもいけない〈不自由さ〉がなんの根拠もなくつきまとっています。
ところがこうした〈無根拠の不自由さ〉が剥き出しで他者とかかわり合いをみせているのがこれら短歌の特徴でもあります。それが、こわい。
たとえば、「先生、吉田君が風船です」と風船になった吉田君を冷静に描写し定言化できるクラスメート。どこにも出ない道のはずなのにだれかと握手をしようとしている「ぼく」。「逃れないあなた」と「朝までつづく廊下」を「おめでとう」という最大限の祝福で肯定している誰か。
これら短歌には、無根拠な桎梏が唐突に他者から定言化される様態が示されています。
つまりですね、これら短歌においていちばん〈こわい〉のは、こうした異様な状況を成立させてしまう定型ではないかとおもうんですね。定型が成立させている状況なんです、このこわさは。たぶん。
だから、なにがこわいかっていうと、定型がこわいのです。
この世界には、こわいことをうたった短歌はおそらくたくさんあります。しかし、我妻さんの短歌のこわさはおそらくこわいことをうたうというよりも、〈こわさ〉のうえでうたうことにあるのではないかとおもうのです。〈こわさ〉=定型のうえでうたうこと。それは、短歌を詠むかぎり、のがれようがありません。だからそれはほんとうにこわいことなのです。
階段が盗まれた家ぬすまれたかいだんがあるいえ草原 我妻俊樹
【短歌こわい(not こわい短歌)】
我妻さんは歌人かつ怪談作家でもあるんですが、我妻さんの短歌のもつこわさの根っこにどうも〈桎梏〉=みもふたもなく結ばれてしまってあることがあるんじゃないかとおもうんですね。そのような歌をほかにも我妻さんの短歌からすこしあげてみます。
歩いてもどこにも出ない道を来たぼくと握手をしてくれるかい
逃れないあなたになったおめでとう朝までつづく廊下おめでとう
風船になって椅子にむすばれている、どこにも出ない道からやって来ての握手、逃れないあなたと朝までつづく廊下。
これらの短歌にはこうしたどこにもいけない〈不自由さ〉がなんの根拠もなくつきまとっています。
ところがこうした〈無根拠の不自由さ〉が剥き出しで他者とかかわり合いをみせているのがこれら短歌の特徴でもあります。それが、こわい。
たとえば、「先生、吉田君が風船です」と風船になった吉田君を冷静に描写し定言化できるクラスメート。どこにも出ない道のはずなのにだれかと握手をしようとしている「ぼく」。「逃れないあなた」と「朝までつづく廊下」を「おめでとう」という最大限の祝福で肯定している誰か。
これら短歌には、無根拠な桎梏が唐突に他者から定言化される様態が示されています。
つまりですね、これら短歌においていちばん〈こわい〉のは、こうした異様な状況を成立させてしまう定型ではないかとおもうんですね。定型が成立させている状況なんです、このこわさは。たぶん。
だから、なにがこわいかっていうと、定型がこわいのです。
この世界には、こわいことをうたった短歌はおそらくたくさんあります。しかし、我妻さんの短歌のこわさはおそらくこわいことをうたうというよりも、〈こわさ〉のうえでうたうことにあるのではないかとおもうのです。〈こわさ〉=定型のうえでうたうこと。それは、短歌を詠むかぎり、のがれようがありません。だからそれはほんとうにこわいことなのです。
階段が盗まれた家ぬすまれたかいだんがあるいえ草原 我妻俊樹
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