【感想】ササキサンを軽くあやしてから眠る 榊陽子
- 2014/08/11
- 12:14
ササキサンを軽くあやしてから眠る 榊陽子
【ササキサンをめぐる冒険】
この句をみたときに、川上弘美の一連の小説をぱっと思い浮かべたんですが、川上弘美の小説においても、ニシノユキヒコ、センセイ、コスミスミコ、ハヅキさんなどカタカナで人物が呼ばれることが多いんですね。
で、そんなふうなカタカナの名前で呼ぶことによってどんなふうな効果がでてくるかというと、ひとつは、〈意味の脱臭〉です。漢字っていうのはどうしても表意文字なので、意味作用がべたべた付着しています。ところが、名前をカタカナ化するとそこには純粋な音(おん)しかあらわれなくなる。もっといえば、名前は、意味作用だけでなく、純粋な〈呼びかけ〉とのみ機能するようになる。
呼びかけられたとき、はじめてそこから意味作用がたちあがってくる名前。それが、カタカナの名前じゃないかと。
で、ここから榊さんの句にもどってみます。語り手は、上五を崩してまで、ササキサンと名指しています。だからどうしてもここはササキサンじゃなければだめだったということです。そしてその必然性としてのサン付けに注意してみたいとおもいます。なぜなら、この〈さん〉が人名の丁寧さをあらわす接尾語だった場合に、「あやす」とのふしぎな掛け合いがうまれてくるからです。
「あやす」というのは、そのそもそもの意味として幼いもののご機嫌をとる、という意味があります。つまり、あやすという動詞を使うときは、自分が相手よりも〈上〉に立っているときです。だから、ササキサンがひとではなく、ペット(のようなもの)だと読み手は直感することができます。ところが、もしそうだとしたら、なぜ、さん付けする必要があったのかという問題がでてきます。
ここがこの句のおもしろいところだとおもいます。句全体としては軽くあやす対象であるからペット(のようなもの)だろうとおもいます。ところが、そのペット(のようなもの)は「ササキサン」と呼ばれる(むしろ人的な)(さん付けすることで語り手が〈下〉になるような)〈なにか〉なのです。
ここで、この句に対して、冒険的深読みをしてみたいとおもいます。
読み手は初読では、これは、飼い主がペットをあやして眠る句だと(たぶん)おもいます。
ところが、これは逆転しても十分ありえる読みにもなりえます。つまり、ペットが飼い主を軽くあやしてから眠るといった状況です。ペットがササキサンをあやしてねむる、といった状況です。
なにが正しい読みかといったことではなく、この句はササキサンとあやすということばが同時に使われていることでさまざまな位相や変転を呼び込んでいる句だというところがおもしろいのだとおもいます。
ですから、ペットなどではなく、ササキサンというひとを軽くあやして眠るでもいいわけです。もっといえば、ササキサンという語り手が信奉している神様でもいい。
ともかく、この句がわたしたちをあやしてくるのは、〈ササキサン〉と〈あやす〉ということばの並置による仕掛けではないかと、ヤギモトモトモトはおもうのです。
テンノーを正しく発音してごらん 榊陽子
「あのねえ、どうしてあたしのこと好きでいてくれなかったの」
じっと眺めていると、コスミスミコが壺に向かってささやいた。
「あたしはあんなに好きだったのに。あなただけ、世界中の誰でもない、あなただけに好かれればよかったのに」 いっしんに壺に向かって言う。
「でもだめだったわねえ。ざんねんよお、ほんとに」
言いおわると、コスミスミコはしばらく黙り、それからしずかに泣きはじめた。
(……)
「コスミスミコ、おまえしょうのない奴だね、壺に住んでも、まだあきらめきれんか」
「とっくにあきらめたんですう。でもときどき思い出すんですう」
壺に向いたまま、コスミスミコは答えた。
「思い出してもしょうがないよ。知ってるだろうけど」
ウテナさんが言うと、「知ってるもん、よく知ってるもん、ウテナさんよりよっぽどあたしのほうが長生きしてるんだから」とコスミスミコは答えた。
川上弘美「クリスマス」『神様』
【ササキサンをめぐる冒険】
この句をみたときに、川上弘美の一連の小説をぱっと思い浮かべたんですが、川上弘美の小説においても、ニシノユキヒコ、センセイ、コスミスミコ、ハヅキさんなどカタカナで人物が呼ばれることが多いんですね。
で、そんなふうなカタカナの名前で呼ぶことによってどんなふうな効果がでてくるかというと、ひとつは、〈意味の脱臭〉です。漢字っていうのはどうしても表意文字なので、意味作用がべたべた付着しています。ところが、名前をカタカナ化するとそこには純粋な音(おん)しかあらわれなくなる。もっといえば、名前は、意味作用だけでなく、純粋な〈呼びかけ〉とのみ機能するようになる。
呼びかけられたとき、はじめてそこから意味作用がたちあがってくる名前。それが、カタカナの名前じゃないかと。
で、ここから榊さんの句にもどってみます。語り手は、上五を崩してまで、ササキサンと名指しています。だからどうしてもここはササキサンじゃなければだめだったということです。そしてその必然性としてのサン付けに注意してみたいとおもいます。なぜなら、この〈さん〉が人名の丁寧さをあらわす接尾語だった場合に、「あやす」とのふしぎな掛け合いがうまれてくるからです。
「あやす」というのは、そのそもそもの意味として幼いもののご機嫌をとる、という意味があります。つまり、あやすという動詞を使うときは、自分が相手よりも〈上〉に立っているときです。だから、ササキサンがひとではなく、ペット(のようなもの)だと読み手は直感することができます。ところが、もしそうだとしたら、なぜ、さん付けする必要があったのかという問題がでてきます。
ここがこの句のおもしろいところだとおもいます。句全体としては軽くあやす対象であるからペット(のようなもの)だろうとおもいます。ところが、そのペット(のようなもの)は「ササキサン」と呼ばれる(むしろ人的な)(さん付けすることで語り手が〈下〉になるような)〈なにか〉なのです。
ここで、この句に対して、冒険的深読みをしてみたいとおもいます。
読み手は初読では、これは、飼い主がペットをあやして眠る句だと(たぶん)おもいます。
ところが、これは逆転しても十分ありえる読みにもなりえます。つまり、ペットが飼い主を軽くあやしてから眠るといった状況です。ペットがササキサンをあやしてねむる、といった状況です。
なにが正しい読みかといったことではなく、この句はササキサンとあやすということばが同時に使われていることでさまざまな位相や変転を呼び込んでいる句だというところがおもしろいのだとおもいます。
ですから、ペットなどではなく、ササキサンというひとを軽くあやして眠るでもいいわけです。もっといえば、ササキサンという語り手が信奉している神様でもいい。
ともかく、この句がわたしたちをあやしてくるのは、〈ササキサン〉と〈あやす〉ということばの並置による仕掛けではないかと、ヤギモトモトモトはおもうのです。
テンノーを正しく発音してごらん 榊陽子
「あのねえ、どうしてあたしのこと好きでいてくれなかったの」
じっと眺めていると、コスミスミコが壺に向かってささやいた。
「あたしはあんなに好きだったのに。あなただけ、世界中の誰でもない、あなただけに好かれればよかったのに」 いっしんに壺に向かって言う。
「でもだめだったわねえ。ざんねんよお、ほんとに」
言いおわると、コスミスミコはしばらく黙り、それからしずかに泣きはじめた。
(……)
「コスミスミコ、おまえしょうのない奴だね、壺に住んでも、まだあきらめきれんか」
「とっくにあきらめたんですう。でもときどき思い出すんですう」
壺に向いたまま、コスミスミコは答えた。
「思い出してもしょうがないよ。知ってるだろうけど」
ウテナさんが言うと、「知ってるもん、よく知ってるもん、ウテナさんよりよっぽどあたしのほうが長生きしてるんだから」とコスミスミコは答えた。
川上弘美「クリスマス」『神様』
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