あとがきは健さんのものだろう。
- 2014/08/12
- 00:17
しかし『猫』をかいて先月十五円貰ったから早速パナマの帽をかって大得意で被っている所などは随分小供のようだ。然るに先日友人が支那から帰って来て同じくパナマの帽を被っている。しかも僕のよりずっと上等であるのを見て『猫』をかくより支那へ出稼ぎをする方が得策だと思った。
夏目漱石「明治38年(1905)年7月16日 中川芳太郎あて書簡」
庄太郎は必死の勇をふるって、豚の鼻頭を七日六晩叩いた。けれども、とうとう精根が尽きて、手が蒟蒻のように弱って、しまいに豚に舐められてしまった。そうして絶壁の上へ倒れた。
健さんは、庄太郎の話をここまでして、だからあんまり女を見るのは善くないよと云った。自分ももっともだと思った。けれども健さんは庄太郎のパナマの帽子が貰いたいと云っていた。
庄太郎は助かるまい。パナマは健さんのものだろう。
夏目漱石『夢十夜』
漱石がパナマ帽を買ったのは明治38年のことである。これは、熱帯産の高級ストローハットであるパナマが世界的に流行し、その流れが日本にも伝わって来たためで、最新流行の男の夏帽子として定評があった。パナマ帽は、山高帽と違い、夏にふさわしいストローハットである。西欧列強の植民地支配と関係があり、元々中南米のエクアドル原産の麦を素材にしたもので、エキゾチックな「熱帯」あるいは「南方」を表象する帽子であった。
樋口覚「日本人の帽子8 漱石の山高帽とパナマ帽」『三田文学54 文章教室』1998夏
【風船で飛びながらハチミツを食べる夏目漱石】
ときどき〈作者〉の位置について考えていることがある。わたしは基本的には〈作者〉はいったんかっこにくくってからことばの連なりとしての歌や句をあれこれ考えているのだが、ただだからといって〈作者〉がかっこに入りきったままでいいのかというとそういうことでもない(とおもっている)。
たとえば、『夢十夜』にとても印象的なかたちで「パナマ帽」が出てくる。もちろん、小説のことばの連なりだけでこの「パナマ帽」がどういった機能を有しているかをかんがえることはできるかもしれない。けれども当時、パナマ帽がもっていた文化記号的役割に眼をむけることも時に必要であるようにおもうのだ(いま・ここからことばの連なりをみているだけではわからないような)。
つまり、「パナマ帽」はいまここのことばのてざわりではわからないほどには当時の時代の文化空間にひらかれていたりもする。そしてそうした当時パナマ帽がどのような文化記号的役割を担っていたかということにきづくための〈扉〉は、〈作者〉のもつ磁場が担っていることが多い。
たとえば、うえの引用なら、漱石が書簡に「パナマ帽」を記しているのをみて、すくなくとも書簡からは「パナマ帽」が当時、富と権力の象徴と重なることがわかってくるかもしれないし、「支那」への出稼ぎとパナマ帽がつながっていることからは、パナマ帽が地政学的かかわり合いをもっていることとも関連しているかもしれないとなんとなく〈扉〉としてきづく。そこから、パナマ帽には〈日本/支那〉=という位階的支配構造を無意識に生成していく文化記号的役割があったというポストコロニアルな視点ももちこめるかもしれない。
そんなふうに、〈作者〉は磁場としてそれぞれの記号がどのような文化・歴史的な記号としての磁力をもっているかをそれとなくアクセスさせてくることがある。
〈ことばの連なり〉としての〈テクスト〉に、〈作者〉は〈磁場〉としてかかわってくる。
だから、たとえあることばの連なりとしてだけ読み解こうとしても、そのことばの連なりがもっている歴史文化的な空間をさぐるためには〈作者〉がもっている磁場に眼をむける必要もあるのではないかとかんがえている。
これは別のいいかたをしてみると、言語の構造的意味生成を問題化するテクスト論と同時代の言説構造をテクストとの関連において問題化するカルチュラル・スタディーズの〈成果〉をもらって自分なりに読む方法を組み立ててみるとどうなるか、ということでもある(こういうと、みもふたもなくずるいけれども)。
ただ、短詩型文学においてどのくらいそれが有効なのかわからないところがある。短詩型といういいかたもずるいいいかたで、短歌・俳句・川柳と各ジャンルに沿って、それぞれめいめいに読みのモードがどうあるべきかを考えなければならないなともおもっている(でもそれらジャンルにはさらに下位カテゴリーがあるはずでジャンルとしてのみくくる危うさもある)。
わたしが思っている〈読む〉という行為は、おそらくそのつどそのつど歌や句を目の前にしたときに、それら歌や句と〈交渉〉を重ねつつも起ち上げていくしかない〈陣地戦〉のようなものである。なにかひとつの方法に還元されてしまうようなやりかたではなくて、そういった〈読みの陣地戦〉をひとつひとつ、その場所の適正をかんがえながら遂行していくしかないのではないかと。
いちばんいいのは、この歌や句ってこんなふうに読めるんじゃないかな、といったときに、それを聞いていた誰かが、あ、じゃあこんなふうにも読めるよね、とアクセスしてくることではないかとおもっている。
読みとは、決定的な読解をして終止点(ピリオド)をうがつことではなくて、たえず、「、(読点)」をうちつづけながら、次の読み手へとつないでいく、誘因力のことではないかとおもうのだ。
だから、その読みをはじめたとたん、だれかが風船につかまってやってくるハチミツのような読みもこの世界にはあるかもしれないともおもう。ハチミツ的読解、とも呼べるようなものが。
ハチミツたべたい、といって風船につかまっただれかがやってくる。あなたはハチミツの壷のなかに顔をつっこんでいる。あなたがハチミツの世界から顔をあげると、世界は風船でうめつくされている。
詩歌にせよ、小説にせよ、目の前にあるのは常に具体的な言葉の連なりだ。
まず何よりも目の前の言葉に虚心に耳を傾けてみること。
五回読んで見えてこなければ十回読み返してみること。
熟読玩味するうちに、必ずある種の言葉(その言葉の一般的な意味とはズレがあるために文脈から浮いてきたり、ある文脈にかぎって繰り返される言葉)の持つ比重や、作中の不可解な空白や矛盾、さらには意味ありげな省略や語り残しが気になり始めることだろう。
その上にたってあらためて個々の疑問点に「なぜ」というクエスチョンマークをつけてみるとよい。
マークの付け方そのものの中に、おそらくは他の誰をもってしても代えがたい、固有の「方法」が立ち現れてくるはずである。
ラインマーカーやポストイットで徹底的に汚してみることにしよう。
安藤宏「作品論/テクスト論の進め方」『近代文学現代文学論文・レポート作成必携』
〈語り手〉は〈話者〉が統合する他者の様々な言葉の一つとして、作中の登場人物たちの会話などに、あるときは説明を加え、またあるときは葛藤して、対話的・応答的に関わりあう性格の言表である。その過程では、一つの作品のなかでその〈語り手〉の言表の質(=〈語り手〉の「主体性」)が、微妙に変化してくる場合もある。
島村輝「主体性」『読むための理論』
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