【感想】改札を抜けた人から夏になる 倉間しおり
- 2014/08/13
- 00:52
改札を抜けた人から夏になる 倉間しおり
【夏の組成式】
川柳において語り手はどうメタモルフォーゼするのか。どう〈主体〉を〈変換〉するのか。
そのひとつの例示がたとえば倉間さんの句のような〈ナル〉主体としてあらわれるのではないかとおもうんです。
下五が、「夏に出る」や「夏である」ではなく、「夏になる」ということ。
川柳では境界線というものを多く扱うのではないかというのがわたしの考えなんですが、川柳というのは、いまなにかを語っている語り手の主体そのものが溶解してしまうというのが川柳の語り手の基本的な視座にあるのではないかとおもうんですね(それは詩的な川柳でも、ユーモア川柳でもそうです)。
語り手がメタモルフォーゼ的転倒を起こすからこそ、〈詩〉がうまれるし、〈笑い〉が起きる。
だから、「夏に出る」ではなく、「夏になる」でなければならなかったとおもうんですね。「なる」は日常的に使う「ああ、夏になった」という季節の状態の移行をあらわす動詞であると同時に、語り手が〈メタモルフォーゼ(~にナル)していく様相〉を語るものでもあるとおもうんです。
この句では、だから、改札をでた人が夏を感じると同時に、改札をでたひとがつぎつぎと夏に変化し、夏に編制=変成されていく様相が語られているとおもうのです。
もちろん、これを語っている語り手も改札を抜けたら夏にナルのです。この句を読んでしまったわたしもあなたも。
で、こうしたメタモルフォーゼそのものを詠んだのが飯島さんのたとえば次の句ではないかとおもうんです。
毎度おなじみ主体交換でございます 飯島章友
川柳の川柳性としての基本的視座がこの句にあらわれているのではないかとおもうんです。
川柳が〈ちり紙交換〉のように容易な主体交換からはじまるということ。それは〈ちり紙交換〉のようにとくに特筆たるべき事柄ではないこと。そして〈ちり紙・交換〉がたいてい等価交換にはならないように、川柳の主体交換も主体を交換することによって、つまり語り手が自由自在に〈変・態〉することによって、既存のイメージのコードにはない、ハイブリッドな等価ならざるイメージ、もうひとつの〈主体〉をつれてくるのではないかとおもうんです。
しかしそれはこの句の「毎度おなじみ」にあるように慣習化し、ありふれた定型文となっててしまうくらいに川柳にとっては「毎度おなじみ」の日常的な表現手段なのではないか、と。
だから、川柳では、語り手が主体交換の結果、〈変・態〉することは日常的であり、むしろそこから川柳(の思考的枠組み)が始まっているのではないかとさえ、おもうのです。
つまり、川柳のダイナミズムとは、ありふれた〈変・態〉としての主体形成をしつつ、しかしその〈凡庸〉な〈変・態〉の〈日常化〉こそが、他の文芸ジャンルとの差異においては目立ってくるのではないか。ことばをかえるなら、〈異化の凡庸化〉による〈異化〉という込み入った異化が川柳においてはおこなわれているのではないかとおもうのです。
夜の顔かさねていくと箱になる 柳本々々
(『かばん』2013年11月号)
【夏の組成式】
川柳において語り手はどうメタモルフォーゼするのか。どう〈主体〉を〈変換〉するのか。
そのひとつの例示がたとえば倉間さんの句のような〈ナル〉主体としてあらわれるのではないかとおもうんです。
下五が、「夏に出る」や「夏である」ではなく、「夏になる」ということ。
川柳では境界線というものを多く扱うのではないかというのがわたしの考えなんですが、川柳というのは、いまなにかを語っている語り手の主体そのものが溶解してしまうというのが川柳の語り手の基本的な視座にあるのではないかとおもうんですね(それは詩的な川柳でも、ユーモア川柳でもそうです)。
語り手がメタモルフォーゼ的転倒を起こすからこそ、〈詩〉がうまれるし、〈笑い〉が起きる。
だから、「夏に出る」ではなく、「夏になる」でなければならなかったとおもうんですね。「なる」は日常的に使う「ああ、夏になった」という季節の状態の移行をあらわす動詞であると同時に、語り手が〈メタモルフォーゼ(~にナル)していく様相〉を語るものでもあるとおもうんです。
この句では、だから、改札をでた人が夏を感じると同時に、改札をでたひとがつぎつぎと夏に変化し、夏に編制=変成されていく様相が語られているとおもうのです。
もちろん、これを語っている語り手も改札を抜けたら夏にナルのです。この句を読んでしまったわたしもあなたも。
で、こうしたメタモルフォーゼそのものを詠んだのが飯島さんのたとえば次の句ではないかとおもうんです。
毎度おなじみ主体交換でございます 飯島章友
川柳の川柳性としての基本的視座がこの句にあらわれているのではないかとおもうんです。
川柳が〈ちり紙交換〉のように容易な主体交換からはじまるということ。それは〈ちり紙交換〉のようにとくに特筆たるべき事柄ではないこと。そして〈ちり紙・交換〉がたいてい等価交換にはならないように、川柳の主体交換も主体を交換することによって、つまり語り手が自由自在に〈変・態〉することによって、既存のイメージのコードにはない、ハイブリッドな等価ならざるイメージ、もうひとつの〈主体〉をつれてくるのではないかとおもうんです。
しかしそれはこの句の「毎度おなじみ」にあるように慣習化し、ありふれた定型文となっててしまうくらいに川柳にとっては「毎度おなじみ」の日常的な表現手段なのではないか、と。
だから、川柳では、語り手が主体交換の結果、〈変・態〉することは日常的であり、むしろそこから川柳(の思考的枠組み)が始まっているのではないかとさえ、おもうのです。
つまり、川柳のダイナミズムとは、ありふれた〈変・態〉としての主体形成をしつつ、しかしその〈凡庸〉な〈変・態〉の〈日常化〉こそが、他の文芸ジャンルとの差異においては目立ってくるのではないか。ことばをかえるなら、〈異化の凡庸化〉による〈異化〉という込み入った異化が川柳においてはおこなわれているのではないかとおもうのです。
夜の顔かさねていくと箱になる 柳本々々
(『かばん』2013年11月号)
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