【感想】先生の背後にきのこぐも綺麗 谷雄介
- 2014/04/23
- 14:28
先生の背後にきのこぐも綺麗
『新撰21』から谷雄介さんの句です。
現代俳句のひとつの特徴に視線を同一化していくのではなくて、たえず視線を差異化=多重化させていくような、〈微分化される視線〉という主題があるようにおもうんです。
たとえば神野紗希さんにこんな句があります。
延々とCMピザの上の海老
この句の視線にまつわる構造は、うえにかかげた谷雄介さんの句とおなじような構造をとっているのではないかとわたしはおもうのです。
では、どんな点が似かよっているのか。
それは、消失点の複数化です。
谷さんの「先生の~」の句には、語り手のまなざしに対してまず「先生」という消失点が、そしてそのすぐあとに「きのこぐも」という消失点がでてきます。
神野さんの「延々と~」の句には、いったん「CM」という消失点がでたあとに、「海老」に消失点が移行します。
俳句は定型という上五・中七・下五のベクトルがある以上、上→中→下と読み手の視線は移行していくのですが、このとき消失点も移行しているといえるのではないでしょうか。つまり、それは視線の棲処を一極化させないといういいかたもできるのではないでしょうか。
谷さんの句でとくに注意したいのは、「きのこぐも」が定型上では「きのこ/ぐも」と切れているところだとおもいます。語り手の「きのこぐも」に対するポジションは、「綺麗」と体言止めで断定しつつも、定型上ではブレているようにおもいます。
もちろん、それは「先生の背後」という視線のブレからもうかがえます。「きのこぐも」とストレートにわたりあえる、表象できるわけではなく、間接的にしか、不完全なかたちにしかたどりつけないし、表象することもできない。
そういった「綺麗」ではすくいあげられなかった「きのこぐも」としてこの句はみためとは相反するレベルで読解ができるのではないでしょうか。
「きのこぐも」を表象しようとしたときのその視線の複雑さ、屈折のしかたがこの句の大事なポイントなのではないかとわたしはおもうのです。
つまり、これはそういったストレートなまなざしを俳句という形式を使ってなお投げかけることのできなかった語り手の表象することの屈折を詠んだ句ではないのか、と。
『新撰21』から谷雄介さんの句です。
現代俳句のひとつの特徴に視線を同一化していくのではなくて、たえず視線を差異化=多重化させていくような、〈微分化される視線〉という主題があるようにおもうんです。
たとえば神野紗希さんにこんな句があります。
延々とCMピザの上の海老
この句の視線にまつわる構造は、うえにかかげた谷雄介さんの句とおなじような構造をとっているのではないかとわたしはおもうのです。
では、どんな点が似かよっているのか。
それは、消失点の複数化です。
谷さんの「先生の~」の句には、語り手のまなざしに対してまず「先生」という消失点が、そしてそのすぐあとに「きのこぐも」という消失点がでてきます。
神野さんの「延々と~」の句には、いったん「CM」という消失点がでたあとに、「海老」に消失点が移行します。
俳句は定型という上五・中七・下五のベクトルがある以上、上→中→下と読み手の視線は移行していくのですが、このとき消失点も移行しているといえるのではないでしょうか。つまり、それは視線の棲処を一極化させないといういいかたもできるのではないでしょうか。
谷さんの句でとくに注意したいのは、「きのこぐも」が定型上では「きのこ/ぐも」と切れているところだとおもいます。語り手の「きのこぐも」に対するポジションは、「綺麗」と体言止めで断定しつつも、定型上ではブレているようにおもいます。
もちろん、それは「先生の背後」という視線のブレからもうかがえます。「きのこぐも」とストレートにわたりあえる、表象できるわけではなく、間接的にしか、不完全なかたちにしかたどりつけないし、表象することもできない。
そういった「綺麗」ではすくいあげられなかった「きのこぐも」としてこの句はみためとは相反するレベルで読解ができるのではないでしょうか。
「きのこぐも」を表象しようとしたときのその視線の複雑さ、屈折のしかたがこの句の大事なポイントなのではないかとわたしはおもうのです。
つまり、これはそういったストレートなまなざしを俳句という形式を使ってなお投げかけることのできなかった語り手の表象することの屈折を詠んだ句ではないのか、と。
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