【感想】ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
- 2014/08/14
- 13:29
ぬばたまの夜のプールの水中で靴下を脱ぐ 童貞だった しんくわ
どことなく銀色夏生に似ている他は 過不足のない告白だった
カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月
【 としての青春 の 切断/風景】
しんくわさんの短歌の一字アキは他の短歌にみられないような一字アキとして機能しているのではないかという話です。
短歌において、一字アキっていうのは〈間〉として機能しています。その〈間〉によって語り手が語り方を変えたり、意識のモードを変換したりすることによって歌に多層的な厚みがうまれてくる場合もあります。
で、しんくわさんの短歌の一字アキの場合、それらももちろん含むかもしれないのですが、それよりもなによりも〈切断〉として機能しているのではないかというのがわたしのかんがえです。
たとえばうえの銀色夏生の歌なんですが、語り手は銀色夏生の詩集めいた告白をうけています。それは過不足のない告白だったと語り手が語りながらもその告白してきた相手と〈切〉れているのは銀色夏生に似ていたことばだったことに加えて、一字アキ〈 〉というマテリアルな距離感だとおもうんですね。すっと語り手がうしろに引いたぶんの距離感が空白の間として語られている。
ぬばたまの夜の短歌も「プールの水中で靴下を脱ぐ」語り手は一字アキをすることにより自分自身とまた切断しているのではないかとおもうんですね。「童貞だった」は過去形なんですが、みずからが「童貞」であることを後説的な語りで語ることによりラベリングして切断する。そのときの自分からさらに語り手が切断されてうしろに引く。
カンフーアタックの歌も一字アキがふたつありますが、これも「カンフーアタック」「屋根にひっかかったままの体育館シューズ」「九月」のそれぞれの風景が一字アキの距離の切断をうけることで、語り手が統括できない風景として点在してしまう。でも、たぶん、その切断された統辞できることばをもたない切断された風景こそが〈青春〉ではないのかとおもうわけです。
たとえば古屋実のマンガ『稲中卓球部』を思い出してもいいんですが、稲中卓球部はあらゆる青春の願望と挫折を変奏しつつ、しかしそれら変奏をまとめられるタイトル=コードが「稲中卓球部」という他者から便宜的に与えられたラベルでしかないこと。それはうらがえせば、やはり青春が切断された風景の断続としてしかありえないことの表象だともおもうんですね。
〈青春〉には〈練習〉なんかなくて、そこにはただ統合化しえない通過点としてのアキばかりのずたずたの風景しかない。だから、
「卓球に練習なんか必要ない」また無茶を言う生徒会長だ しんくわ
どことなく銀色夏生に似ている他は 過不足のない告白だった
カンフーアタック 体育館シューズは屋根にひっかかったまま 九月
【 としての青春 の 切断/風景】
しんくわさんの短歌の一字アキは他の短歌にみられないような一字アキとして機能しているのではないかという話です。
短歌において、一字アキっていうのは〈間〉として機能しています。その〈間〉によって語り手が語り方を変えたり、意識のモードを変換したりすることによって歌に多層的な厚みがうまれてくる場合もあります。
で、しんくわさんの短歌の一字アキの場合、それらももちろん含むかもしれないのですが、それよりもなによりも〈切断〉として機能しているのではないかというのがわたしのかんがえです。
たとえばうえの銀色夏生の歌なんですが、語り手は銀色夏生の詩集めいた告白をうけています。それは過不足のない告白だったと語り手が語りながらもその告白してきた相手と〈切〉れているのは銀色夏生に似ていたことばだったことに加えて、一字アキ〈 〉というマテリアルな距離感だとおもうんですね。すっと語り手がうしろに引いたぶんの距離感が空白の間として語られている。
ぬばたまの夜の短歌も「プールの水中で靴下を脱ぐ」語り手は一字アキをすることにより自分自身とまた切断しているのではないかとおもうんですね。「童貞だった」は過去形なんですが、みずからが「童貞」であることを後説的な語りで語ることによりラベリングして切断する。そのときの自分からさらに語り手が切断されてうしろに引く。
カンフーアタックの歌も一字アキがふたつありますが、これも「カンフーアタック」「屋根にひっかかったままの体育館シューズ」「九月」のそれぞれの風景が一字アキの距離の切断をうけることで、語り手が統括できない風景として点在してしまう。でも、たぶん、その切断された統辞できることばをもたない切断された風景こそが〈青春〉ではないのかとおもうわけです。
たとえば古屋実のマンガ『稲中卓球部』を思い出してもいいんですが、稲中卓球部はあらゆる青春の願望と挫折を変奏しつつ、しかしそれら変奏をまとめられるタイトル=コードが「稲中卓球部」という他者から便宜的に与えられたラベルでしかないこと。それはうらがえせば、やはり青春が切断された風景の断続としてしかありえないことの表象だともおもうんですね。
〈青春〉には〈練習〉なんかなくて、そこにはただ統合化しえない通過点としてのアキばかりのずたずたの風景しかない。だから、
「卓球に練習なんか必要ない」また無茶を言う生徒会長だ しんくわ
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