【短歌】塔のぼる……(『歌会たかまがはら』2014年3月号 お題「塔」 天野うずめ 選)
- 2014/08/15
- 00:48
塔のぼる一万段目あがるときふいにガス栓思い出す俺 柳本々々
図書館のまだひらかれぬ戯曲からひかりが漏れる生殖の午後
「そうだ、京都行こう。」をゆめみる日常に牛丼などが横でつゆだく
【ふとんハードボイルド】
西原天気さんからご自身のブログ『俳句的日常』の「 こんなとき「俺」はどうするべきなのか? 柳本々々のガス栓 」という記事で『かばん』からわたしの歌を三首とりあげていただきました。ありがとうございました!
西原さんの記事に触発されてことばをつむいでみると西原さんの句「県道に俺のふとんが捨ててある」にもあるように短詩型文学における〈俺〉の位相ってなんだろう、っておもうんですよね。
で、どうも、〈俺〉っていうのは、語り手が「!?」となったときに、〈ふいうちの自称〉として「わたし」でも「ぼく」でも「われ」でもなく「俺」といってしまうのではないか。意識が自称を先取りしてしまったときに、自称が追いつかなかった自称詞が〈俺〉なのではないかとおもったりするんです。「ふ、ふとん!?」とか、「が、ガス栓!?」などの意識が超越してしまったときに。
ちなみにこのガス栓の歌はもともと『歌会たかまがはら』にて天野うずめさんに選んでいただいた歌だったのですが当日のUstreamにて、天野うずめさんから「これはゲームのなかでの一万段目もありうるのかもしれない」や当日ゲスト選者をされていた藪内亮輔さんから「〈実感〉はゲームや共同幻想やマンガやアニメからもたちあがる場合もある」といった評をいただきました。ありがとうございました!
ゲームで塔といえば、『ドルアーガの塔』が有名だと思うんですが、たしかにそうしたゲームリアリズムとしての一万段目と、そのゲームをプレイしていふプレイヤーとしての日常リアリズムのガス栓がせりあっている歌としても読めるんじゃないかなと自分なりに思いました。短詩型におけるゲームリアリズムやまんが・アニメリアリズムをさぐるのもおもしろいテーマかもしれません。
西原さんがガス栓の歌に対して、
そのときどうするかは、人によってさまざまです(私は9,999段を引き返したりしません。「爆発してしまえ、俺の部屋」と思うことにします)。
ただ、人それぞれに次の行動を決定する前、この思い出してしまった、気づいてしまった「一瞬」には、なんとも名状しがたい心の状態がある。この歌はその瞬間を詠んでいます。
と書いてくださったのですが、その「一瞬」としての「名状しがたい心の状態」はおそらく一万段目にも、県道にもあって、そしてその〈名状しがたさ〉はどこかでこの世に対して世界から疎外されたときの、しかしそれでもその疎外を甘受しようとする一人称として語り手に〈俺〉を選び取らせるように思いました。
だからこうもいえます。〈俺〉とは疎外された世界に対して、でも俺は生きていくからとハードボイルドを演じる〈ガス栓ハードボイルド〉や〈ふとんハードボイルド〉なのではないか、と。
夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 西原天気
図書館のまだひらかれぬ戯曲からひかりが漏れる生殖の午後
「そうだ、京都行こう。」をゆめみる日常に牛丼などが横でつゆだく
【ふとんハードボイルド】
西原天気さんからご自身のブログ『俳句的日常』の「 こんなとき「俺」はどうするべきなのか? 柳本々々のガス栓 」という記事で『かばん』からわたしの歌を三首とりあげていただきました。ありがとうございました!
西原さんの記事に触発されてことばをつむいでみると西原さんの句「県道に俺のふとんが捨ててある」にもあるように短詩型文学における〈俺〉の位相ってなんだろう、っておもうんですよね。
で、どうも、〈俺〉っていうのは、語り手が「!?」となったときに、〈ふいうちの自称〉として「わたし」でも「ぼく」でも「われ」でもなく「俺」といってしまうのではないか。意識が自称を先取りしてしまったときに、自称が追いつかなかった自称詞が〈俺〉なのではないかとおもったりするんです。「ふ、ふとん!?」とか、「が、ガス栓!?」などの意識が超越してしまったときに。
ちなみにこのガス栓の歌はもともと『歌会たかまがはら』にて天野うずめさんに選んでいただいた歌だったのですが当日のUstreamにて、天野うずめさんから「これはゲームのなかでの一万段目もありうるのかもしれない」や当日ゲスト選者をされていた藪内亮輔さんから「〈実感〉はゲームや共同幻想やマンガやアニメからもたちあがる場合もある」といった評をいただきました。ありがとうございました!
ゲームで塔といえば、『ドルアーガの塔』が有名だと思うんですが、たしかにそうしたゲームリアリズムとしての一万段目と、そのゲームをプレイしていふプレイヤーとしての日常リアリズムのガス栓がせりあっている歌としても読めるんじゃないかなと自分なりに思いました。短詩型におけるゲームリアリズムやまんが・アニメリアリズムをさぐるのもおもしろいテーマかもしれません。
西原さんがガス栓の歌に対して、
そのときどうするかは、人によってさまざまです(私は9,999段を引き返したりしません。「爆発してしまえ、俺の部屋」と思うことにします)。
ただ、人それぞれに次の行動を決定する前、この思い出してしまった、気づいてしまった「一瞬」には、なんとも名状しがたい心の状態がある。この歌はその瞬間を詠んでいます。
と書いてくださったのですが、その「一瞬」としての「名状しがたい心の状態」はおそらく一万段目にも、県道にもあって、そしてその〈名状しがたさ〉はどこかでこの世に対して世界から疎外されたときの、しかしそれでもその疎外を甘受しようとする一人称として語り手に〈俺〉を選び取らせるように思いました。
だからこうもいえます。〈俺〉とは疎外された世界に対して、でも俺は生きていくからとハードボイルドを演じる〈ガス栓ハードボイルド〉や〈ふとんハードボイルド〉なのではないか、と。
夏ゆふべドンキホーテで鞭を買ふ 西原天気
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