【感想】加藤治郎さんのゑゑゑゑ、荻原裕幸さんのぽぽぽぽ、仙波龍英さんのはははは、ニコニコ動画のええええ
- 2014/04/24
- 12:29
にぎやかに釜飯の鶏ゑゑゑゑゑゑゑゑゑひどい戦争だった 加藤治郎『ハレアカラ』(1994年)
恋人と棲むよろこびもかなしみもぽぽぽぽぽぽとしか思はれず 荻原裕幸『あるまじろん』(1992年)
ひら仮名は凄じきかなはははははははははははは母死んだ 仙波龍英『路地裏の花屋』(1992年)
視覚効果から言及されることの多い短歌でわたしもはじめてこれらの短歌をみたとき、とても衝撃をうけたんですが、〈視覚〉ということばが期せずして入ってきてしまっているように、これらの短歌は語り手の問題として読めるとも同時に、むしろ受け手=読み手の問題として読んでいくべき短歌でもあるのかなとおもうことがあるんです。〈視覚効果〉の視覚っていうのは、このとき、受け手の〈視覚〉への〈効果〉なわけで、語り手がそうさせているというよりは、受け手がそれを〈効果〉として受容できているという状況のほうが大きいのではないか、と。
で、本来的には初出にあたるべきなんですが、初出がちょっとわからないので、これら短歌が掲載されている歌集の出版年をしらべると、ちょうどこの三冊の歌集というのは90年代初頭のだいたい同じ時期に出版されていることがわかります。
で、メディア論の本を読むとわかるんですが(水越伸『21世紀メディア論』2011)、1990年代初頭っていうのは、ちょうどパーソナル・コンピュータが一般化していく時期にあたります(1991年にはドブレ『一般メディオロジー講義』、1993年にはボルツの『グーテンベルク銀河系の終焉-新しいコミュニケーションのすがた』といったようなそれまでのメディア感性を切断したうえでこれからの新しいメディア論を構築していくような本が世界で出版されたりもしているのも象徴的です)。
つまり、だれもが・かんたんに・キーボードという新しい〈ペン〉を用いて、ええええええええええええええええええ、や、おおおおおおおおおおおおお、と打ち込むことができるようになっていく時代、そうした書き言葉がメディアに馴らされた感性によってナチュラルにうけとれる時代になっていったときといえるのではないかとおもうんですよね(たとえば時代はとびますが、ニコニコ動画のコメントに似たような書き言葉=書く行為=エクリチュールがみられるのはそれがもはやだれでもうちだせるからだとおもうんです)。
だからこれらの短歌は、短歌史における〈書く行為〉をめぐる身体のモードの転換を、ひとつの側面から表象してしまっているのではないかとおもうんですね。
内容面が謎化され、〈ゑ〉とは何か、〈ぽ〉とは何かといった解釈が繰り広げられる短歌だとおもうんですが、むしろ書く身体、そしてそれを読む身体のモードが変わっていく変化をとらえた短歌としても読むことができるのではないか。
そのときに大事なのは、そこに〈ノイズ〉を盛り込むということだとおもうんです。
たとえば、加藤治郎さんのゑはいまでも変換しにくいんです。ええええええええ、だったらよかったんですが、ゑは「え」を変換したり、「うぇ」を変換しないといけない。もしくは、「ぽ」も「は」もそうです。母音ではなく、子音+母音なので、手間がかかります。
つまり、引用するときに、語りなおすときに、デジタルのうちこみでも非常に〈手間〉がかかるということです。
しかもこれら三つはきちんと定型の音律にそろえてあるので、数を間違えるといったことが許されません。つまり、デジタルでコピペしたいのを誘発させるような短歌でありながら、コピペする際にコピペ元がゑの数がきちんと合っているのかどうか数えなければなりません。
だからそうした〈手間〉が、「恋人と棲むよろこびやかなしみ」や「ひどい戦争」や「母」の「死」の振幅となって表象されているようにわたしにはおもえるんです。
つまり、かんたんにうちこむことも、コピペすることもできないような文字の差異と反復です。これは定型をもった短歌だからできることで、その意味で、ニコニコ動画のコメントにみられる「えええええええ」のような「え」とは似ているようで・決定的に・ちがった意味をもってるとおもうんです。つまり、加藤さんの短歌も荻原さんの短歌も仙波さんの短歌も、短歌という定型詩とメディア史を接合させていることがとても大事なのではないかとおもうのです。定型が生きてこざるをえないわけです。
そういったメディア史から短歌をとらえてみることを誘発しているようなメルクマールをなす短歌三首だとおもうのです。
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