【感想】きのういた象の姿を見ませんか 松田俊彦
- 2014/08/15
- 02:32
きのういた象の姿を見ませんか 松田俊彦
【もうひとつの〈象の消滅〉】
松田俊彦さんの句集を読んでいて気がつくのは、松田さんの川柳のひとつの特徴として〈巨大さの喪失=失念〉があるのではないかということです。
掲句の「象の喪失」ですが、村上春樹のとつぜん街から消滅した〈象〉を描いた「象の消滅」やレイモンド・カーヴァーの〈父親〉の代替としての〈喪失の象〉を描く「象」という短編を思い出してもわかるように、〈象〉というのはむしろなにかの巨大なシステムの喪失として表象されます。
で、それはなぜなんだろう、なぜ象は喪ってはじめてせりあがってくるんだろうと考えてみた場合に、わたしは〈象〉があまりにロマンチシズムの言説にからめとられてしまっているために(つまり、〈象〉よりもむしろ言説の方が〈象〉化してしまっているために)〈文学的〉に〈象〉にであうためには〈喪失=失念〉を経由してしか出会えないのではないかとおもうんです。
これは動物がいかに記号の檻に閉じこめられているか、記号の動物園として管理されているかといった問題にも通じているようにおもいます。
松田さんの句集から語り手が〈巨大さ〉とたちあっている句をほかにもあげてみます。
待っている大きなものの名を忘れ
えんぴつを削ると村の製材所
何もかも済ませて月に気づいたり
きりんの死きりんを入れる箱がない
二回目を許してからの雪崩かな
火葬場の控えの間から見る夕陽
で、どれもですね、語り手が〈気づく〉という行為から〈巨大さ〉が発現していることに注意したいとおもいます。継続してあらわれる巨大さではなく、語り手が気づいた巨大さなのです(ちなみにこの気づきによる巨大さの発現とは、いかにそれまで語り手が巨大さを失念していたかといううらがえしの巨大さの喪失にやはりつながっていると思います)。
そうした巨大さの失念と巨大さの現出に語り手がたちあっているダイナミズムが松田俊彦さんの川柳のひとつの特徴としてあるのではないかとおもうんですね。
ちなみに、松田俊彦さんの句集の装幀はほとんどツバメノートの体裁をとっていて、だからページもすべてツバメ中性紙というすべすべの紙なんですが(ツバメノートだいすきです)、この句集がこうした「ペン字の書き込みやすいノート」をとっていることにも注目しておきたいとおもいます。ノートとは、書き手がつねに書き込み=気づきとして立ち会う〈巨大さ〉だからです。そしてその〈巨大さ〉の失念=喪失の主題がいつも展開されるのが、書き込まれることで余白をうしないつつ・記憶を記録としてかきとどめそのことによって記憶をうしなう備忘録としてのノートでもあります。
埋めがたい/書き込みがたい余白とは、おそらく、巨大さとしてのテクストへの気づきと失念なのです。
古書店のうすくらやみに神はいた 松田俊彦
それは不思議な光景だった。通風口からじっと中をのぞきんでいると、まるでその象舎の中にだけ冷やりとした肌あいの別の時間性が流れているように感じられたのだ。そして象と飼育係は自分たちを巻きこまんとしている─あるいはもう既に一部を巻きこんでいる─その新しい体系に身を委ねているように僕には思えた。
村上春樹「象の消滅」
ある夜に私は夢を見た。私は五歳か六歳の子供だった。
さあ、ここに乗れよと父さんが言った。
そして私の両手をつかんでひょいと肩にかつぎあげた。私は地上高く上げられたが、怖くはなかった。父さんは私をしっかりとつかまえていた。我々は互いの体をしっかりとつかんでいた。それから父さんは道を歩き始めた。
つかまらんでもいい、ちゃんと落っこちないように持っててやるから。
そう言われて気がついた。父さんの手が私の足首をぎゅっと強く握ってくれていることに。私は両手を放し、横に広げた。そしてバランスを取るためにずっとそのままの格好でいた。父さんは私を肩車したまま歩き続けた。私は象に乗っているつもりだった。そこで目が覚めた。
レイモンド・カーヴァー「象」
【もうひとつの〈象の消滅〉】
松田俊彦さんの句集を読んでいて気がつくのは、松田さんの川柳のひとつの特徴として〈巨大さの喪失=失念〉があるのではないかということです。
掲句の「象の喪失」ですが、村上春樹のとつぜん街から消滅した〈象〉を描いた「象の消滅」やレイモンド・カーヴァーの〈父親〉の代替としての〈喪失の象〉を描く「象」という短編を思い出してもわかるように、〈象〉というのはむしろなにかの巨大なシステムの喪失として表象されます。
で、それはなぜなんだろう、なぜ象は喪ってはじめてせりあがってくるんだろうと考えてみた場合に、わたしは〈象〉があまりにロマンチシズムの言説にからめとられてしまっているために(つまり、〈象〉よりもむしろ言説の方が〈象〉化してしまっているために)〈文学的〉に〈象〉にであうためには〈喪失=失念〉を経由してしか出会えないのではないかとおもうんです。
これは動物がいかに記号の檻に閉じこめられているか、記号の動物園として管理されているかといった問題にも通じているようにおもいます。
松田さんの句集から語り手が〈巨大さ〉とたちあっている句をほかにもあげてみます。
待っている大きなものの名を忘れ
えんぴつを削ると村の製材所
何もかも済ませて月に気づいたり
きりんの死きりんを入れる箱がない
二回目を許してからの雪崩かな
火葬場の控えの間から見る夕陽
で、どれもですね、語り手が〈気づく〉という行為から〈巨大さ〉が発現していることに注意したいとおもいます。継続してあらわれる巨大さではなく、語り手が気づいた巨大さなのです(ちなみにこの気づきによる巨大さの発現とは、いかにそれまで語り手が巨大さを失念していたかといううらがえしの巨大さの喪失にやはりつながっていると思います)。
そうした巨大さの失念と巨大さの現出に語り手がたちあっているダイナミズムが松田俊彦さんの川柳のひとつの特徴としてあるのではないかとおもうんですね。
ちなみに、松田俊彦さんの句集の装幀はほとんどツバメノートの体裁をとっていて、だからページもすべてツバメ中性紙というすべすべの紙なんですが(ツバメノートだいすきです)、この句集がこうした「ペン字の書き込みやすいノート」をとっていることにも注目しておきたいとおもいます。ノートとは、書き手がつねに書き込み=気づきとして立ち会う〈巨大さ〉だからです。そしてその〈巨大さ〉の失念=喪失の主題がいつも展開されるのが、書き込まれることで余白をうしないつつ・記憶を記録としてかきとどめそのことによって記憶をうしなう備忘録としてのノートでもあります。
埋めがたい/書き込みがたい余白とは、おそらく、巨大さとしてのテクストへの気づきと失念なのです。
古書店のうすくらやみに神はいた 松田俊彦
それは不思議な光景だった。通風口からじっと中をのぞきんでいると、まるでその象舎の中にだけ冷やりとした肌あいの別の時間性が流れているように感じられたのだ。そして象と飼育係は自分たちを巻きこまんとしている─あるいはもう既に一部を巻きこんでいる─その新しい体系に身を委ねているように僕には思えた。
村上春樹「象の消滅」
ある夜に私は夢を見た。私は五歳か六歳の子供だった。
さあ、ここに乗れよと父さんが言った。
そして私の両手をつかんでひょいと肩にかつぎあげた。私は地上高く上げられたが、怖くはなかった。父さんは私をしっかりとつかまえていた。我々は互いの体をしっかりとつかんでいた。それから父さんは道を歩き始めた。
つかまらんでもいい、ちゃんと落っこちないように持っててやるから。
そう言われて気がついた。父さんの手が私の足首をぎゅっと強く握ってくれていることに。私は両手を放し、横に広げた。そしてバランスを取るためにずっとそのままの格好でいた。父さんは私を肩車したまま歩き続けた。私は象に乗っているつもりだった。そこで目が覚めた。
レイモンド・カーヴァー「象」
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