【感想】わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
- 2014/08/15
- 03:02
わけあってバナナの皮を持ち歩く 楢崎進弘
【→これはわたしのエスカレーターではないから→→】
楢崎さんの川柳を読んでいると、ひとつの主題として、システムとシステムが擦れ違う瞬間を描いているのではないかと感じることがあります。
たとえば、うえのバナナの句なんですが、この場合擦れ違っているシステムとシステムは、語り手の抱く「わけ」と「バナナの皮」です。システムとは、「自律的な機能を有した意味の体系」という意味で使っているのですが、ここで「バナナの皮」がこの句にとって奏功しているのだとすれば、「バナナの皮」とはたやすく「持ち歩く」「わけ」を拒むようなある自律的な意味のシステムをもっているわけです。だからこそ、読み手は、「バナナの皮」を持ち歩く「わけ」なんてふつうないよね、っておもう。
ところが、この句において、システムとシステムがこすれあってるんですね。本来的には語り手は「わけ」
はもたなかったろうし、「バナナの皮」も持ち歩かれなかったものだろうシステムとシステムが定型のうえでこすりあわされている。そのときの意味の火花がおもしろく感じられるのではないかとおもうんです。
たとえばそれはおなじ楢崎さんのこんな句にもうかがえます。
病院の廊下で父と擦れ違う 楢崎進弘
病院の廊下で父とばったり会うんではないんです。システム(父)とシステム(わたし)が有機的に統合しあうわけではなくて、「擦れ違う」んです。〈擦れ〉るんですよ、システムが。
だから、「父」からは「わたし」のシステムはわからないし、「わたし」から「父」のシステムもわからない。
ただそれを「病院の廊下」というアバウトな意味のコードをさししめしているだけで、内実に機能している意味の所在はどちらからもわからない関係になっている。
これが、楢崎さんの句のひとつのおもしろさではないかとおもうんですね。
そんな語り手がシステムとしてのエスカレーターに乗れば、必然的にわたしのシステムがせりだしてきて、次のような句がうまれます。→→→→→←→→→
エスカレーターが動く私の未来とは別に 楢崎進弘
【→これはわたしのエスカレーターではないから→→】
楢崎さんの川柳を読んでいると、ひとつの主題として、システムとシステムが擦れ違う瞬間を描いているのではないかと感じることがあります。
たとえば、うえのバナナの句なんですが、この場合擦れ違っているシステムとシステムは、語り手の抱く「わけ」と「バナナの皮」です。システムとは、「自律的な機能を有した意味の体系」という意味で使っているのですが、ここで「バナナの皮」がこの句にとって奏功しているのだとすれば、「バナナの皮」とはたやすく「持ち歩く」「わけ」を拒むようなある自律的な意味のシステムをもっているわけです。だからこそ、読み手は、「バナナの皮」を持ち歩く「わけ」なんてふつうないよね、っておもう。
ところが、この句において、システムとシステムがこすれあってるんですね。本来的には語り手は「わけ」
はもたなかったろうし、「バナナの皮」も持ち歩かれなかったものだろうシステムとシステムが定型のうえでこすりあわされている。そのときの意味の火花がおもしろく感じられるのではないかとおもうんです。
たとえばそれはおなじ楢崎さんのこんな句にもうかがえます。
病院の廊下で父と擦れ違う 楢崎進弘
病院の廊下で父とばったり会うんではないんです。システム(父)とシステム(わたし)が有機的に統合しあうわけではなくて、「擦れ違う」んです。〈擦れ〉るんですよ、システムが。
だから、「父」からは「わたし」のシステムはわからないし、「わたし」から「父」のシステムもわからない。
ただそれを「病院の廊下」というアバウトな意味のコードをさししめしているだけで、内実に機能している意味の所在はどちらからもわからない関係になっている。
これが、楢崎さんの句のひとつのおもしろさではないかとおもうんですね。
そんな語り手がシステムとしてのエスカレーターに乗れば、必然的にわたしのシステムがせりだしてきて、次のような句がうまれます。→→→→→←→→→
エスカレーターが動く私の未来とは別に 楢崎進弘
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