脱衣場で書くあとがき
- 2014/08/16
- 00:48
夏野までタオルケットをひきずって なかはられいこ
なかはられいこさんの『脱衣場のアリス』の〈脱衣場〉というのがとても不思議でときどきかんがえている。
以前この『脱衣場のアリス』について『週刊俳句』にのせていただいた記事をゆうじんに読んでもらったら、むずかしくてよくわからなかった、といわれ、あらら、とおもったけれど、たしかにすこしややこしく書きすぎたかもしれないと反省している(ちなみに蜷川幸雄さんが演出をするときには難解にならないように「母がみてわかるかどうか」を基準にしている、とかつて述べられていた)。
わたしがあそこで考えてみたかったのは、〈脱衣場〉とはなんだろう、ということだったとおもう。脱衣場とアリスが関連づけられて句集タイトルにされたときに、なんらかの〈意味〉がこぽこぽとわきだしているはずで、それってなんなのだろうかということである。
もとより、脱衣場とはすごくふしぎな場所だと思っていて、たとえば自らの身体をみつめるのも脱衣場だろうし(身体論=現実界的)、みずからの顔に見入るのも脱衣場だろうし(自己愛=想像界的)、思春期というえたいのしれないものをなんとか言語分節によって抑圧するのも脱衣場においてかもしれない(言説構築=象徴界的)。
ところがおもしろいとおもうのは、そうした自己=自己循環的な表象の運動が、すべて自己言及的でありつつも、他者の視線からおそらくは派生しているということである。身体をながめるとき、顔をみるとき、思春期をおもうとき、そこにはつねに他者の〈顔〉や〈眼〉や〈身体〉がかかわっている。
だから、脱衣場とはすべての自己を脱ぎながらも、すべての他者をもういちど着直していく場でもあるのだ。
で、この脱衣場をこんどはルイス・キャロルのアリスからみてみるとどうなるだろう。
ルイス・キャロルが写真術になみなみならぬ関心を抱いていたことはよく知られているけれど、同時に、10歳の少女のヌード写真を撮影していたこともよく知られている。ここで大事なのは、いまの写真感覚とちがって、当時の写真は撮影中長い間じっとしていなければならないことだ。つまり当時の写真とは現在のような瞬間的な〈場〉の生成ではなく、持続的な空間生成としての〈場〉としてあった。つまり、ルイス・キャロルの写真によって〈脱がされた〉アリスたちが生成していたのは〈脱衣場〉的な空間であったともいえる。それは服を脱ぎ、じぶんを脱ぎ、現実界的な写真や象徴界的なルイス・キャロルのテクストとしての他者の視線をつねに感じ、他者の服をまとう空間でもあったはずだ。
だから〈脱衣場のアリス〉はもしかしたらそうした文化的な側面からアプローチできるかもしれないなともおもう。タイトルにはアリスはいたものの、句集のなかの脱衣場にはもはやアリスはいなく、チェシャ猫しかいないのも考えてみたいところだ。しかもそのチェシャ猫も〈消える〉ことでみずからの存在を担保している非-存在である。
つまり、脱衣場にはだれもいないのかもしれない。川柳の句のなかの主体がそこに限りなく〈いる〉ことをにおわせながらも、いともたやすく〈消え〉てしまうように。
それでもチェシャ猫がにやにや笑いながら消えるように、笑い=テクストは残っていく。
チェシャ猫の笑い=テクストとは、なんとか言語化しようとしても、言語化できない〈なにか〉である。
わたしはそのチェシャ猫の笑いは、すこし、川柳の言表にも近いような気がしている。ちなみに私はディズニーのチェシャ猫の歌がうたえるのでこころみにいまここで歌ってみるとすると、この俺は摩訶不思議ー、魔力をもった猫さー、そこらのや
影絵だけ猫を抱いてる日曜日 柳本々々
(『川柳綿毛の会』2014年2月)
なかはられいこさんの『脱衣場のアリス』の〈脱衣場〉というのがとても不思議でときどきかんがえている。
以前この『脱衣場のアリス』について『週刊俳句』にのせていただいた記事をゆうじんに読んでもらったら、むずかしくてよくわからなかった、といわれ、あらら、とおもったけれど、たしかにすこしややこしく書きすぎたかもしれないと反省している(ちなみに蜷川幸雄さんが演出をするときには難解にならないように「母がみてわかるかどうか」を基準にしている、とかつて述べられていた)。
わたしがあそこで考えてみたかったのは、〈脱衣場〉とはなんだろう、ということだったとおもう。脱衣場とアリスが関連づけられて句集タイトルにされたときに、なんらかの〈意味〉がこぽこぽとわきだしているはずで、それってなんなのだろうかということである。
もとより、脱衣場とはすごくふしぎな場所だと思っていて、たとえば自らの身体をみつめるのも脱衣場だろうし(身体論=現実界的)、みずからの顔に見入るのも脱衣場だろうし(自己愛=想像界的)、思春期というえたいのしれないものをなんとか言語分節によって抑圧するのも脱衣場においてかもしれない(言説構築=象徴界的)。
ところがおもしろいとおもうのは、そうした自己=自己循環的な表象の運動が、すべて自己言及的でありつつも、他者の視線からおそらくは派生しているということである。身体をながめるとき、顔をみるとき、思春期をおもうとき、そこにはつねに他者の〈顔〉や〈眼〉や〈身体〉がかかわっている。
だから、脱衣場とはすべての自己を脱ぎながらも、すべての他者をもういちど着直していく場でもあるのだ。
で、この脱衣場をこんどはルイス・キャロルのアリスからみてみるとどうなるだろう。
ルイス・キャロルが写真術になみなみならぬ関心を抱いていたことはよく知られているけれど、同時に、10歳の少女のヌード写真を撮影していたこともよく知られている。ここで大事なのは、いまの写真感覚とちがって、当時の写真は撮影中長い間じっとしていなければならないことだ。つまり当時の写真とは現在のような瞬間的な〈場〉の生成ではなく、持続的な空間生成としての〈場〉としてあった。つまり、ルイス・キャロルの写真によって〈脱がされた〉アリスたちが生成していたのは〈脱衣場〉的な空間であったともいえる。それは服を脱ぎ、じぶんを脱ぎ、現実界的な写真や象徴界的なルイス・キャロルのテクストとしての他者の視線をつねに感じ、他者の服をまとう空間でもあったはずだ。
だから〈脱衣場のアリス〉はもしかしたらそうした文化的な側面からアプローチできるかもしれないなともおもう。タイトルにはアリスはいたものの、句集のなかの脱衣場にはもはやアリスはいなく、チェシャ猫しかいないのも考えてみたいところだ。しかもそのチェシャ猫も〈消える〉ことでみずからの存在を担保している非-存在である。
つまり、脱衣場にはだれもいないのかもしれない。川柳の句のなかの主体がそこに限りなく〈いる〉ことをにおわせながらも、いともたやすく〈消え〉てしまうように。
それでもチェシャ猫がにやにや笑いながら消えるように、笑い=テクストは残っていく。
チェシャ猫の笑い=テクストとは、なんとか言語化しようとしても、言語化できない〈なにか〉である。
わたしはそのチェシャ猫の笑いは、すこし、川柳の言表にも近いような気がしている。ちなみに私はディズニーのチェシャ猫の歌がうたえるのでこころみにいまここで歌ってみるとすると、この俺は摩訶不思議ー、魔力をもった猫さー、そこらのや
影絵だけ猫を抱いてる日曜日 柳本々々
(『川柳綿毛の会』2014年2月)
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