【感想】永井祐さんと中澤系さんの乗る電車に乗って-青い電車と理解できない乗客たち-
- 2014/08/16
- 16:51
あの青い電車にもしもぶつかればはね飛ばされたりするんだろうな 永井祐
【次は終点、零度。れいど。】
この歌って〈死〉をうたった歌だと思うんですが、ところがその〈死〉にリアリティがないっていうのがポイントになるんじゃないかとおもうんです。
で、それは、「電車」を〈形容〉してしまったからなのじゃないかとおもうんですよ。
語り手がみている「電車」は、山手線でもないし中央線でもないし武蔵野線でもないし銀座線でもないし京浜東北線でもないし横浜線でもないし東横線でもないし総武線でもない。東京近郊に限らずどんな路線でもいいですが、それらでもない。
「あの青い電車」なんですよね。つまり、語り手は、自分が死ぬほどのリアリティを感じている電車の〈内実〉を知らない。どういう路線で走っていて、どういう会社が運営していて、どういう文化的記号にいろどられた電車なのかもしらない。「あの青い電車」というとことん〈皮相〉的な電車しか語ることができない。
ところがその「あの青い電車」というとことんアバウトな「電車」でも「ぶつかればはね飛ばされたりする」リアルをもっている。
そうしたアバウトな語りしかもてないものにリアルに殺される〈実感〉がこの短歌には語られているようにおもうんですね。
ただ永井さんの歌がもうひとつ込み入っていくのは、「~だろうな」という結句にみられるように〈感嘆・詠嘆〉してるんですね。つまり、まるでじぶんの死をはたからみているような〈アバウトさ〉なんですよね。
まとめてみると、アバウトな語りしかできないものにリアルに殺される実感がついにはアバウトにしかなりえなかった〈非実感的実感〉がこの歌にはあるようにおもうんです。
ところがですね、そうした〈非実感的実感〉さえも排除したのが中澤系さんの電車のうただとおもうんです。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
もうこの歌ではですね、感情も理解も心情もなにもないんだ、電車っていうのは、いっさい〈想〉のない〈理解の零度の地平〉ではね飛ばされるかはね飛ばされないかの二者択一でしかないんだ、っていう歌のようにおもうんですよね。
だから、ふたつの歌をまとめてみると、どちらの歌も最終的には〈実感/理解〉としての〈感〉を排するという歌になってるようにおもうんですよね。
だから、電車っていうのがどこかに運んでくれるというような都市空間を非-距離的にアクセスしていくようなメディアとして機能するというよりも、感情がそこで終点を見いださざるをえないような、感情の零度にむかう〈どこへも行けない風景〉へ向かうための非メディア的メディアとして機能しているのではないかもとおもうのです。
電車とはおそらく、終点にむかう〈なにか〉ではなく、それ自体が〈終点〉であるような〈なにか〉なのです。
電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから 穂村弘
【次は終点、零度。れいど。】
この歌って〈死〉をうたった歌だと思うんですが、ところがその〈死〉にリアリティがないっていうのがポイントになるんじゃないかとおもうんです。
で、それは、「電車」を〈形容〉してしまったからなのじゃないかとおもうんですよ。
語り手がみている「電車」は、山手線でもないし中央線でもないし武蔵野線でもないし銀座線でもないし京浜東北線でもないし横浜線でもないし東横線でもないし総武線でもない。東京近郊に限らずどんな路線でもいいですが、それらでもない。
「あの青い電車」なんですよね。つまり、語り手は、自分が死ぬほどのリアリティを感じている電車の〈内実〉を知らない。どういう路線で走っていて、どういう会社が運営していて、どういう文化的記号にいろどられた電車なのかもしらない。「あの青い電車」というとことん〈皮相〉的な電車しか語ることができない。
ところがその「あの青い電車」というとことんアバウトな「電車」でも「ぶつかればはね飛ばされたりする」リアルをもっている。
そうしたアバウトな語りしかもてないものにリアルに殺される〈実感〉がこの短歌には語られているようにおもうんですね。
ただ永井さんの歌がもうひとつ込み入っていくのは、「~だろうな」という結句にみられるように〈感嘆・詠嘆〉してるんですね。つまり、まるでじぶんの死をはたからみているような〈アバウトさ〉なんですよね。
まとめてみると、アバウトな語りしかできないものにリアルに殺される実感がついにはアバウトにしかなりえなかった〈非実感的実感〉がこの歌にはあるようにおもうんです。
ところがですね、そうした〈非実感的実感〉さえも排除したのが中澤系さんの電車のうただとおもうんです。
3番線快速電車が通過します理解できない人は下がって 中澤系
もうこの歌ではですね、感情も理解も心情もなにもないんだ、電車っていうのは、いっさい〈想〉のない〈理解の零度の地平〉ではね飛ばされるかはね飛ばされないかの二者択一でしかないんだ、っていう歌のようにおもうんですよね。
だから、ふたつの歌をまとめてみると、どちらの歌も最終的には〈実感/理解〉としての〈感〉を排するという歌になってるようにおもうんですよね。
だから、電車っていうのがどこかに運んでくれるというような都市空間を非-距離的にアクセスしていくようなメディアとして機能するというよりも、感情がそこで終点を見いださざるをえないような、感情の零度にむかう〈どこへも行けない風景〉へ向かうための非メディア的メディアとして機能しているのではないかもとおもうのです。
電車とはおそらく、終点にむかう〈なにか〉ではなく、それ自体が〈終点〉であるような〈なにか〉なのです。
電車の中でもセックスをせよ戦争へゆくのはきっときみたちだから 穂村弘
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