【感想】本当の愛を知るため台風が過ぎた日のあさ裏庭さがす 新井蜜
- 2014/08/18
- 08:57
本当の愛を知るため台風が過ぎた日のあさ裏庭さがす
スタバにも愛を置いてはなかつたがコーヒー飲んで午前を過ごす
ウォーキング・マシンの下の空隙を覗いて見たが愛はなかつた
昼すぎのフードコートでいつも会ふ男は愛のゲームをしてゐる
Googleで検索すればたちまちに無数の愛が画面をおほふ
新井蜜「愛をさがす」『かばん』2014年2月
【(連作というフィールドのなかで)愛をさがした】
『かばん』2014年2月号に新井蜜さんの「愛をさがす」という連作が載っているんですが、この新井さんの連作は、「連作とはなにか」というテーマを愛という側面から描いているようにおもうんです。
この連作「愛をさがす」には全八首すべてに「愛」という文字が入っていることが特徴です。
またもうひとつ特徴なのは「愛をさがす」ということが観念的にではなく、「愛をさがす」という文字通りに徹底的にマテリアルなモノとしてさがされていることです。
そこでは愛は拾えるものであり、手にふれられるものであり、降るものであり、飲めるものであり、転がっているものであり、データ化されたものであり、文字である〈なにか〉です。つまり、この連作の語り手がいだいているであろう〈愛〉とは、おそらくは、〈眼にみえるもの〉ということになります。
ですからまずひとつこれがこの連作のおもしろいところだと思うんですが、見つけられずに語り手が必死に連作を通して、短歌を通してさがしている「愛」を、読み手は最初から最後まで〈みつけ〉ているということになります。なぜなら愛とはとどのつまりが〈眼に見える文字〉でもあるからです。
となると、この連作にとっての〈愛〉のテーマとは、実は、語り手と読み手とのあいだにある埋められない〈間隙〉であったのではないかとおもったりするんです。読み手はこの連作を通して、あなたのいうところの愛はこの連作のすべてにあるんだよ、とおもいます。ところが語り手は最終的にGoogle検索にはたどりつき、匿名のおびただしい書き手たちが残した「愛」という文字形象にはたどりつくものの、みずからの語りの痕跡としての「愛」にはまだ(おそらくは)きづいていません。
しかしこのGoogle検索の歌が最後に置かれた意味をもういちど考えてみると、もしかすると、エクリチュール=書記としての愛に語り手も最終的にきづいたことが、この連作の〈愛をさがす〉ひとつの終わりだったのかもしれません。
ウェブ上に愛の文字が覆い尽くされたときに、語り手もまたみずからが語ってきたところの痕跡としての書かれた/書き継いできた「愛」という文字の痕跡にきづいたのではないでしょうか。
そして〈愛をさがす〉という行為のなかがさがしつつも短歌として語りつづたことが最終的にははじめから愛をみつけられていたことにひるがえること。そうした反転をともなう〈愛〉のありかたがこの連作にはあるようにもおもいます。
そしてその愛は、さきほどいった語り手と読み手のギャップ、愛をめぐる間隙がさいごに「無数の愛が画面をおほふ」という出来事をとおして連絡されることで、埋め尽くされるからではないかとおもうんですよね。
こういったおおきな意味の反転は、連作だからこそできうる意味作用であり、その意味においてこの新井さんの「愛をさがす」はほんとうに連作をフィールドとして愛をさがしているうただとわたしはおもいます。
連作というながい旅路のプロセスをへてはじめてさがしあてられる/さがしそこねることのできる〈愛〉もあるのではないかと。
ひかるとこ光らないとこ雨のなか路面に愛の欠片をさがす 新井蜜
スタバにも愛を置いてはなかつたがコーヒー飲んで午前を過ごす
ウォーキング・マシンの下の空隙を覗いて見たが愛はなかつた
昼すぎのフードコートでいつも会ふ男は愛のゲームをしてゐる
Googleで検索すればたちまちに無数の愛が画面をおほふ
新井蜜「愛をさがす」『かばん』2014年2月
【(連作というフィールドのなかで)愛をさがした】
『かばん』2014年2月号に新井蜜さんの「愛をさがす」という連作が載っているんですが、この新井さんの連作は、「連作とはなにか」というテーマを愛という側面から描いているようにおもうんです。
この連作「愛をさがす」には全八首すべてに「愛」という文字が入っていることが特徴です。
またもうひとつ特徴なのは「愛をさがす」ということが観念的にではなく、「愛をさがす」という文字通りに徹底的にマテリアルなモノとしてさがされていることです。
そこでは愛は拾えるものであり、手にふれられるものであり、降るものであり、飲めるものであり、転がっているものであり、データ化されたものであり、文字である〈なにか〉です。つまり、この連作の語り手がいだいているであろう〈愛〉とは、おそらくは、〈眼にみえるもの〉ということになります。
ですからまずひとつこれがこの連作のおもしろいところだと思うんですが、見つけられずに語り手が必死に連作を通して、短歌を通してさがしている「愛」を、読み手は最初から最後まで〈みつけ〉ているということになります。なぜなら愛とはとどのつまりが〈眼に見える文字〉でもあるからです。
となると、この連作にとっての〈愛〉のテーマとは、実は、語り手と読み手とのあいだにある埋められない〈間隙〉であったのではないかとおもったりするんです。読み手はこの連作を通して、あなたのいうところの愛はこの連作のすべてにあるんだよ、とおもいます。ところが語り手は最終的にGoogle検索にはたどりつき、匿名のおびただしい書き手たちが残した「愛」という文字形象にはたどりつくものの、みずからの語りの痕跡としての「愛」にはまだ(おそらくは)きづいていません。
しかしこのGoogle検索の歌が最後に置かれた意味をもういちど考えてみると、もしかすると、エクリチュール=書記としての愛に語り手も最終的にきづいたことが、この連作の〈愛をさがす〉ひとつの終わりだったのかもしれません。
ウェブ上に愛の文字が覆い尽くされたときに、語り手もまたみずからが語ってきたところの痕跡としての書かれた/書き継いできた「愛」という文字の痕跡にきづいたのではないでしょうか。
そして〈愛をさがす〉という行為のなかがさがしつつも短歌として語りつづたことが最終的にははじめから愛をみつけられていたことにひるがえること。そうした反転をともなう〈愛〉のありかたがこの連作にはあるようにもおもいます。
そしてその愛は、さきほどいった語り手と読み手のギャップ、愛をめぐる間隙がさいごに「無数の愛が画面をおほふ」という出来事をとおして連絡されることで、埋め尽くされるからではないかとおもうんですよね。
こういったおおきな意味の反転は、連作だからこそできうる意味作用であり、その意味においてこの新井さんの「愛をさがす」はほんとうに連作をフィールドとして愛をさがしているうただとわたしはおもいます。
連作というながい旅路のプロセスをへてはじめてさがしあてられる/さがしそこねることのできる〈愛〉もあるのではないかと。
ひかるとこ光らないとこ雨のなか路面に愛の欠片をさがす 新井蜜
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