【感想】絶え間なくうごくマスクの奥に口ほんたうにいい一生だつた 山川藍
- 2014/04/24
- 22:37
絶え間なくうごくマスクの奥に口ほんたうにいい一生だつた 山川藍
『怪談短歌』で石川美南さんが大賞に選んだ山川藍(山川藍天)さんの短歌です。
以前からずっと気になって考えていたうたで、でもこれどういうふうに読んだらいいんだろうとじぶんなりにずっとかんがえていたうたでもあります。
ベケット演劇のような口だけが激しく動いてるなかで、その発話する器官としての身体も、発話主体さえも消えてしまっているような、しかし発話だけは行われつづけているというそういったこわさとふしぎさがあるおもしろい短歌だとおもうんです。
この短歌はいろんなふうに解釈できるとおもうんですが、たとえばこの短歌の〈こわさ〉に注目するならば、この短歌の語り手はだれなのか・どんなひとなのか・どこにいるのかっていうことなんじゃないかなとおもうんですよね(ここからはあくまでひとつの解釈できる可能性として、わたしが感じたこわさとして読んでみたいとおもいます)。
「マスクの奥に口」というふうに語り手はうたっているんですが、ふつう「マスク」は奥に口があります。これは記述する必要はないはずです。ところが語り手は〈わざわざ〉これを記述しています。しかも、上の句のおわり(下の句のはじまるまえ)に「口」としめくくるかたちでウェイトをかけてうたっていることが大事だとおもうんです。
〈わざわざ〉記述したこと。この〈わざわざ〉が〈こわさ〉の要因になっているんではないかとおもうんです。これは裏を返せば、〈わざわざ〉記述しなければいけない事態だったから、と読むことができるようにおもいます。
つまり、語り手はマスクの奥に口があることを予期できていなかったのではないかと。だからいまあらためてその事態におどろき、記述しなければならなかったのではないかと。
本来、語り手にとってはマスクの奥に口があってはいけないはずなのに、マスクが絶え間なくうごいてしまっている、しかもそれは「ほんたうにいい一生だつた」と人生を統括するような人格主体として語りはじめてしまっている。
それがこの語り手がみてしまっている〈こわさ〉でありうたうべきおどろくべき出来事だったのではないかとおもうんですよね。
で、ここまでの仮説を前提にして先にすすむなら、マスクの奥にうごいている口をもし語り手が感じているとするならば、マスクのうしろにあるものは「口」なのかどうかは実はわからないはずです。マスクの中なのですから。だから、口じゃなくても虫かもしれないし、それはわからない。みえないはずです。しかし、語り手は「口」と断定的にうたっている。上の句を「口」という強調する、確信的な体言止めで終わらせています。どういうことなんでしょうか。
わたしはこんなふうにかんがえてみました。これってもしかすると語り手自身がマスクをかけていて、ところがそのマスクのなかで語り手も予期しないかたちで、かってに口が動きはじめ、しゃべりはじめてしまった。そのじぶんをみつめつつ、うたっているという〈凄まじくこわい〉短歌なのではないでしょうか。
自分以外の対象化できるような誰かのマスクが動いて発話していたとしたら、それならいいんです。こわくないんです。こわいですが、逃げることもできるのです。でも、自分のなかに自分がコントロールできていない他者を発見してしまうことは、逃げようがないので、おそろしいことだとおもうんです。
マスクっていうのは哲学的にかんがえれば、右手で左手をにぎると対自的にじぶんの存在を感じてしまうように、マスクをかけることによってかえって顔の輪郭を触感として意識し、対自的に自分の存在を感じてしまうというのは日常感覚としてもあるとおもうんですよ。「あ、いまマスクかけてんなじぶん」という感じ、ありますよね。そういった、マスクの対自機能をうまく怪談要素として組み込んでいる短歌だとおもうんです。
で、自分の口が勝手に語りはじめたこの仮説をさらにおしすすめるならば、さらにこわいのは、かってにしゃべりはじめたじぶんが発話した言表が、「ほんたうにいい人生だつた」と〈死〉にむかおうとしているところです。
コントロールできない、制御できないじぶんが勝手にしゃべりだし、それを対自的に意識したせつな、その他者としてのじぶんがみずからの人生をかってに統括し、終わらせようとさえしている。
あくまでわたしの読みのひとつにすぎないんですが、これはそういった〈凄まじいこわさ〉をもつ短歌なのではないかとおもうのです。他者としてのじぶんをうたったこわさとして。
『怪談短歌』で石川美南さんが大賞に選んだ山川藍(山川藍天)さんの短歌です。
以前からずっと気になって考えていたうたで、でもこれどういうふうに読んだらいいんだろうとじぶんなりにずっとかんがえていたうたでもあります。
ベケット演劇のような口だけが激しく動いてるなかで、その発話する器官としての身体も、発話主体さえも消えてしまっているような、しかし発話だけは行われつづけているというそういったこわさとふしぎさがあるおもしろい短歌だとおもうんです。
この短歌はいろんなふうに解釈できるとおもうんですが、たとえばこの短歌の〈こわさ〉に注目するならば、この短歌の語り手はだれなのか・どんなひとなのか・どこにいるのかっていうことなんじゃないかなとおもうんですよね(ここからはあくまでひとつの解釈できる可能性として、わたしが感じたこわさとして読んでみたいとおもいます)。
「マスクの奥に口」というふうに語り手はうたっているんですが、ふつう「マスク」は奥に口があります。これは記述する必要はないはずです。ところが語り手は〈わざわざ〉これを記述しています。しかも、上の句のおわり(下の句のはじまるまえ)に「口」としめくくるかたちでウェイトをかけてうたっていることが大事だとおもうんです。
〈わざわざ〉記述したこと。この〈わざわざ〉が〈こわさ〉の要因になっているんではないかとおもうんです。これは裏を返せば、〈わざわざ〉記述しなければいけない事態だったから、と読むことができるようにおもいます。
つまり、語り手はマスクの奥に口があることを予期できていなかったのではないかと。だからいまあらためてその事態におどろき、記述しなければならなかったのではないかと。
本来、語り手にとってはマスクの奥に口があってはいけないはずなのに、マスクが絶え間なくうごいてしまっている、しかもそれは「ほんたうにいい一生だつた」と人生を統括するような人格主体として語りはじめてしまっている。
それがこの語り手がみてしまっている〈こわさ〉でありうたうべきおどろくべき出来事だったのではないかとおもうんですよね。
で、ここまでの仮説を前提にして先にすすむなら、マスクの奥にうごいている口をもし語り手が感じているとするならば、マスクのうしろにあるものは「口」なのかどうかは実はわからないはずです。マスクの中なのですから。だから、口じゃなくても虫かもしれないし、それはわからない。みえないはずです。しかし、語り手は「口」と断定的にうたっている。上の句を「口」という強調する、確信的な体言止めで終わらせています。どういうことなんでしょうか。
わたしはこんなふうにかんがえてみました。これってもしかすると語り手自身がマスクをかけていて、ところがそのマスクのなかで語り手も予期しないかたちで、かってに口が動きはじめ、しゃべりはじめてしまった。そのじぶんをみつめつつ、うたっているという〈凄まじくこわい〉短歌なのではないでしょうか。
自分以外の対象化できるような誰かのマスクが動いて発話していたとしたら、それならいいんです。こわくないんです。こわいですが、逃げることもできるのです。でも、自分のなかに自分がコントロールできていない他者を発見してしまうことは、逃げようがないので、おそろしいことだとおもうんです。
マスクっていうのは哲学的にかんがえれば、右手で左手をにぎると対自的にじぶんの存在を感じてしまうように、マスクをかけることによってかえって顔の輪郭を触感として意識し、対自的に自分の存在を感じてしまうというのは日常感覚としてもあるとおもうんですよ。「あ、いまマスクかけてんなじぶん」という感じ、ありますよね。そういった、マスクの対自機能をうまく怪談要素として組み込んでいる短歌だとおもうんです。
で、自分の口が勝手に語りはじめたこの仮説をさらにおしすすめるならば、さらにこわいのは、かってにしゃべりはじめたじぶんが発話した言表が、「ほんたうにいい人生だつた」と〈死〉にむかおうとしているところです。
コントロールできない、制御できないじぶんが勝手にしゃべりだし、それを対自的に意識したせつな、その他者としてのじぶんがみずからの人生をかってに統括し、終わらせようとさえしている。
あくまでわたしの読みのひとつにすぎないんですが、これはそういった〈凄まじいこわさ〉をもつ短歌なのではないかとおもうのです。他者としてのじぶんをうたったこわさとして。
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