【川柳】笑顔と吃音をめぐって
- 2014/08/19
- 12:50
笑顔笑顔笑顔笑顔(税込みで) 柳本々々
どもる服どもらない口どもる靴
【ことばの文脈/文脈のことば】
なかはられいこさんからうえのふたつの句を「紙の上の句会、坂の上の句会」『そらとぶうさぎ』にてとりあげていただきました。
ありがとうございました!
なかはらさんから指摘されて、そうかこれはマクドナルドの句だったのかもしれない、とおもった。
わたしはマクドナルドがいろんな意味ですきなのだが(赤い道化師が不気味で文学的だから、とか)、あらためて考えてみると、マクドナルドにおいて〈スマイル〉は、ある文化的表象を担っているのではないか。
そもそもスマイルがゼロ円であるとは、スマイルが〈無料〉ではあるが、それも〈商品〉化し、〈消費〉化されるということの〈現れ〉でもある。
その意味でスマイルは記号的には〈タダ〉ではない。消費社会のサイクルのなかで(おそらくは)画一的で均一的で情報量の少ない記号的食べ物(ジャンクフード)とともに消費されるべき記号が〈スマイル〉である。
笑顔(スマイル)は消費社会においては、うみだすものでも、うむものでも、ふいに現象してしまうものでもなく、しっかり均一的に備給される〈グローバル=帝国〉的な消費物なのだ、なによりも(税込み的消費)。
さいきんずっと短詩型文学と差別語の関係についてかんがえていた。〈どもる〉というのは小説などではみられるし、日常的に使ったりすることも多くあるが(わたし自体が幼少期〈どもる〉ことが多かったのでよく使っ/使われていた)、テレビなどにおいては放送禁止用語とされている(ただ、テレビの場合、〈噛む〉という似た感じのことばがあるし、日常的にも〈きょどる〉などのことばもある)。
ちなみにほかにも「~屋」というのも差別用語として指定されている場合もある。
差別語が難しいのは、ことばを使用するだけで、その背景が使用者の意図とは別に再生産されてしまうことだ。たとえ、使用者がそういう意図ではなかったといっても、すでにそのことば自体がある強度をもつ文脈を有しており、意図と関係なく文脈が働いてしまうこともある。
ただその一方で、差別語をむやみたらに排除すればそれでいいのか。それではただたんに問題を抑圧しているだけで事態はなにも変わらないのではないかという意見もある。
難しいことであるしかんたんになにか意見を述べられることでもないと思うのだけれど、大事なことは差別語と差別語のもつ文脈とどう向き合うかということではないかとおもっている。問題は、差別語そのものというよりも、差別語を使う状況とその文脈にあるのではないかと。
ぎゃくにいえば、その文脈の把握がずれてしまっているときに、どんなことばであっても〈差別語〉たりうる危険もあるということではないかともかんがえている。
たとえば小説によくみられる「お、おまえは!?」も〈どもり=吃音〉といえば吃音なのだが(そしてそれは発声というよりは小説表現独特の言表なのかもしれないけれども)、そのときにそれが〈差別〉かどうかよりも、それが〈差別〉となるならばどのような文脈や背景が再生産されているからなのか、といったゼロワンに還元されない問いの立て方が重要になってくるようにおもう。
むずかしいところだともおもうし、ことばのまわりをうろうろしているひとりのにんげんとして、ずっと勉強していきたい、かんがえつづけていきたいテーマだとおもっている。
偏見は内面化された迷信と同様、自己完結性を装うゆえに、それは対他的な状況を回避しうるという前提が用意されてしまう。それによって彼/彼女は、自己の言説やさまざまな表象を受け取る読者をより抽象的なレヴェルに封印することができる。「独断と偏見」はこのような思い込みによって自らを許し、他者からの了解を先取りし、そうして進んで公にされる。
(……)
偏見の経験はたぶんに感性や感覚の領域に関わっている。感じることは思想や観念の領域とは異なって、往々にして自然化されてしまう。そこに落とし穴もある。しかし、むしろその落とし穴に各自があえて投身し、自らその偏見の視線や拘束された感性と感覚のなかに身を浸してみる。そこからおそらくはじめてアクチュアルな批評というものが生起してくることを願いながら。そしてこうした近代に対する見直しが、今日の「ソフト」な偏見の表出を捉えるヒントを得ることにつながることを願いながら。
(……)
市野川容孝は「障害者」に対して「作為的無関心」というまなざしが浴びせられてきたことを、差別語の問題性とあわせて指摘し、差別が不可視化されてしまうことによって、差別する側とされる側とが向き合う経験を奪ってしまうと論じている。そのうえで「青い芝」の運動を例に、差別をモラルやキャンペーンの対象にしてしまう前に、(「健常者」の)目に見えるように可視化することの意義を説いている。
この「不可視な差別」こそまさに「偏見」の実体にほかならない。見えざる偏見を可視化させること。そして労を惜しまずそれを言語化していくこと。偏見は外部の眼に触れにくいがゆえに偏在する。しかし、そのとき、本当に眼に触れていないのでなく、まなざすことを知らず知らず堰き止めていることに、私たちは実は気づいている。そして偏見をまなざすことを避けることによって、私たちは偏見のまなざしと同じ視線を投げかけている。こうした偏見のシステムを、一つ一つ言葉の積み重ねによって、明るみにしていくこと。
坪井秀人『偏見というまなざし』
どもる服どもらない口どもる靴
【ことばの文脈/文脈のことば】
なかはられいこさんからうえのふたつの句を「紙の上の句会、坂の上の句会」『そらとぶうさぎ』にてとりあげていただきました。
ありがとうございました!
なかはらさんから指摘されて、そうかこれはマクドナルドの句だったのかもしれない、とおもった。
わたしはマクドナルドがいろんな意味ですきなのだが(赤い道化師が不気味で文学的だから、とか)、あらためて考えてみると、マクドナルドにおいて〈スマイル〉は、ある文化的表象を担っているのではないか。
そもそもスマイルがゼロ円であるとは、スマイルが〈無料〉ではあるが、それも〈商品〉化し、〈消費〉化されるということの〈現れ〉でもある。
その意味でスマイルは記号的には〈タダ〉ではない。消費社会のサイクルのなかで(おそらくは)画一的で均一的で情報量の少ない記号的食べ物(ジャンクフード)とともに消費されるべき記号が〈スマイル〉である。
笑顔(スマイル)は消費社会においては、うみだすものでも、うむものでも、ふいに現象してしまうものでもなく、しっかり均一的に備給される〈グローバル=帝国〉的な消費物なのだ、なによりも(税込み的消費)。
さいきんずっと短詩型文学と差別語の関係についてかんがえていた。〈どもる〉というのは小説などではみられるし、日常的に使ったりすることも多くあるが(わたし自体が幼少期〈どもる〉ことが多かったのでよく使っ/使われていた)、テレビなどにおいては放送禁止用語とされている(ただ、テレビの場合、〈噛む〉という似た感じのことばがあるし、日常的にも〈きょどる〉などのことばもある)。
ちなみにほかにも「~屋」というのも差別用語として指定されている場合もある。
差別語が難しいのは、ことばを使用するだけで、その背景が使用者の意図とは別に再生産されてしまうことだ。たとえ、使用者がそういう意図ではなかったといっても、すでにそのことば自体がある強度をもつ文脈を有しており、意図と関係なく文脈が働いてしまうこともある。
ただその一方で、差別語をむやみたらに排除すればそれでいいのか。それではただたんに問題を抑圧しているだけで事態はなにも変わらないのではないかという意見もある。
難しいことであるしかんたんになにか意見を述べられることでもないと思うのだけれど、大事なことは差別語と差別語のもつ文脈とどう向き合うかということではないかとおもっている。問題は、差別語そのものというよりも、差別語を使う状況とその文脈にあるのではないかと。
ぎゃくにいえば、その文脈の把握がずれてしまっているときに、どんなことばであっても〈差別語〉たりうる危険もあるということではないかともかんがえている。
たとえば小説によくみられる「お、おまえは!?」も〈どもり=吃音〉といえば吃音なのだが(そしてそれは発声というよりは小説表現独特の言表なのかもしれないけれども)、そのときにそれが〈差別〉かどうかよりも、それが〈差別〉となるならばどのような文脈や背景が再生産されているからなのか、といったゼロワンに還元されない問いの立て方が重要になってくるようにおもう。
むずかしいところだともおもうし、ことばのまわりをうろうろしているひとりのにんげんとして、ずっと勉強していきたい、かんがえつづけていきたいテーマだとおもっている。
偏見は内面化された迷信と同様、自己完結性を装うゆえに、それは対他的な状況を回避しうるという前提が用意されてしまう。それによって彼/彼女は、自己の言説やさまざまな表象を受け取る読者をより抽象的なレヴェルに封印することができる。「独断と偏見」はこのような思い込みによって自らを許し、他者からの了解を先取りし、そうして進んで公にされる。
(……)
偏見の経験はたぶんに感性や感覚の領域に関わっている。感じることは思想や観念の領域とは異なって、往々にして自然化されてしまう。そこに落とし穴もある。しかし、むしろその落とし穴に各自があえて投身し、自らその偏見の視線や拘束された感性と感覚のなかに身を浸してみる。そこからおそらくはじめてアクチュアルな批評というものが生起してくることを願いながら。そしてこうした近代に対する見直しが、今日の「ソフト」な偏見の表出を捉えるヒントを得ることにつながることを願いながら。
(……)
市野川容孝は「障害者」に対して「作為的無関心」というまなざしが浴びせられてきたことを、差別語の問題性とあわせて指摘し、差別が不可視化されてしまうことによって、差別する側とされる側とが向き合う経験を奪ってしまうと論じている。そのうえで「青い芝」の運動を例に、差別をモラルやキャンペーンの対象にしてしまう前に、(「健常者」の)目に見えるように可視化することの意義を説いている。
この「不可視な差別」こそまさに「偏見」の実体にほかならない。見えざる偏見を可視化させること。そして労を惜しまずそれを言語化していくこと。偏見は外部の眼に触れにくいがゆえに偏在する。しかし、そのとき、本当に眼に触れていないのでなく、まなざすことを知らず知らず堰き止めていることに、私たちは実は気づいている。そして偏見をまなざすことを避けることによって、私たちは偏見のまなざしと同じ視線を投げかけている。こうした偏見のシステムを、一つ一つ言葉の積み重ねによって、明るみにしていくこと。
坪井秀人『偏見というまなざし』
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