【感想】妹尾凛さんのカタチ、桐谷麻ゆきさんのカタチ
- 2014/08/20
- 07:38
短詩型とカタチについて考えていることがあって、短詩型は声にだして詠む音律でありながら、眼で追って読む文字(エクリチュール)でもあるわけです。
ですから、短詩型の可能性としては、声にだしてよむとなんだかきもちいい/きもちわるいというあえての効果とともに、眼でよむとなんだかきもちいい/きもちわるいもあるとおもうんですよね。
で、その眼で読む短詩型の働きをここでは〈カタチ〉とよんでみたいとおおもいます。
忘れてたけど、わたし
マトリョーシカだった
妹尾凛「マトリョーシカ」『Senryu So 2』
この妹尾さんの句が特徴的なのは、頭が三字さげられているのと、二行書きにされていることです。
三字さげられることによって、読み手が抱くのはおそらく、おなじ連作に並んでいるほかの句との差異による〈背たけ〉だとおもうんですね。この句がおさめられている連作タイトルは「マトリョーシカ」なのですが、まるで句の整然とした並び、そしてこの〈背丈〉のズレが並ぶマトリョーシカとして機能してきます。句のひとつひとつがマトリョーシカ人形のひとつひとつのように。
で、そうしたカタチとしてこの句を読むと、句=マトリョーシカとしての一行目に「わたし」が内在されていることがわかってきます。「忘れてたけど、わたしマトリョーシカだった」と語り手はいっていますが、でも、きちんと句はその「わたし」が句の内部に潜みこれからマトリョーシカとして飛び出してくることを忘れてはいないわけです。語り手がどれだけ忘れても、句はカタチとして忘れてはいません。
それがこの句のカタチとしてのおもしろさなのではないかとおもうんです。
ちなみに妹尾凛さんの連作「マトリョーシカ」には、あたかもマトリョーシカのように〈みられる/ひそむ/みつけられる/われる〉ことを意識する語り手があちこちにいるのもおもしろさです。すこし紹介してみます。
かくれんぼとても上手でこわかった 妹尾凛
さみしいものをさがしてごらん金平糖
あっ、いっしゅんでふたつに割れたレモン
からっぽのままで包んでおきました
見られているから空には帰れない
川柳のカタチをみたんですが、短歌においてカタチはどうなっているのか。
ものがたり途切れてひるがえる雲はあなたの街を覆うアロワナ 桐谷麻ゆき
この桐谷麻ゆきさんの短歌を定型でくぎってみます。
ものがたり/とぎれてひるが/えるくもは/あなたのまちを/おおうあろわな
二句から三句がまたがっているのがわかるんですが、この句またがりがすごくこの歌では大事なのではないかとおもいます。
これは雲=アロワナのうたなんですが、「ひるがえる」の部分を句またがりにすることで、カタチとしてアロワナが句=街をまたがり、ひるがえっていく様子があらわされているとおもうんですね。
ここでは句の分節が「ひるがえる」というアロワナの橋渡しによって膨大な時間軸が現出する仕掛けになっています。「ものがたり途切れてひるがえる」というのは、この歌自体が保有している性質でもあり、そうした切れ目を縫い目へと点綴していく様相が「あなたの街」という〈わたしの街ではなかった〉街とかかわり合っていくところにこの歌のおもしろさがあるようにもおもいます。
それはわたしの街ではなかったけれど、そうした分節をひきうけつつも、わたしがうたいあげるアロワナによっていつか縫い合わされるようなわたしの街かもしれません。
いつかわたしのまえにあらわれるすべての花がただしく混在した〈花畑〉のような。
必要なちからただしく選びとりいつかただしく買う花畑 桐谷麻ゆき
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