【感想】朽ちるわたし・老いるきみ・干からびるきみ-石川街子さん・藤島優実さん・竹井紫乙さんの短詩から-
- 2014/08/22
- 08:38
見ていてね きちんと朽ちていくところ 石川街子
【わたしが干からびても】
文学研究においても〈老い(エイジング)〉の側面からまた文学をとらえなおす試みがなされたりしているんですが(倉田容子『語る老女 語られる老女─日本近現代文学にみる女の老い』、尾形明子・長谷川啓編『老いの愉楽─「老人文学」の魅力』)、短詩において〈老い〉というものがどういうふうに主題化されているのかというところは興味深いところだとおもいます。
そこであえて〈エイジング〉から短詩をとらえてみるとどういうことが考えられるかをかんがえてみようとおもいます。
石川さんの句は、〈朽ちる〉は〈老い〉ではないですが、ここでは主体が引き受ける負の変容としての〈朽ちる〉=〈エイジング〉としてあえてとらえてみようとおもいます。句をみてわかるのは、〈わたし〉の朽ちていく様相が〈あなた〉との関係=連関によって描き出されているところです。
わたしとあなたの視線の接着点を「朽ちていくところ」に見いだしているところにこの句のポイントがあるように思います。
〈エイジング〉をわたしとあなたの結び目とするということは、そこに〈これから〉と〈これまで〉の時間をひきこむことでもあります。〈エイジング〉というのは、〈これまで〉のわたしではなくなり、〈これから〉のわたしになっていかざるをえないわたしの力や意志ではいかんともしがたい〈時間〉をめぐる主体のありかただからです。そしてこの句にあらわれているように、〈朽ち〉るというのはたぶんにわたしが朽ちる主体になっていくことによって〈あなた〉に〈みられ〉る客体にもなっていくところとも関係しています。
そうした〈時間〉と〈あなた〉をめぐる朽ちる主題が、この句からはわかってきます。
この時間をポイントにエイジングを描いているつぎのような歌があります。
年老いていかないでわかった 言ったそばから君はもうとおくなる 藤島優実
藤島さんのこの歌では「わかった」という発話がすぐに裏切られることで〈エイジング〉の不可抗力のありかたが効果的に描き出されているいるように思います。意志や発話やことばの彼岸にある〈老い〉が描き出されています。
定型でくぎれば、「としおいて/いかないでわか/ったいった」と「わか/った」が分割されてしまいますが、このようにことばを割るものとして、ことばを失効させるちからとして、この歌においては〈エイジング〉は関係的に現出しているとういことです。
また〈エイジング〉が、客観的な時間のなかで現出するものではなくて、「言ったそばから君はもうとおくなる」のように主観的な生きられる時間のなかにあるのも注意したいとおもいます。だから〈エイジング〉とは負の側面として言説化されがちですが(アンチエイジング!)、そうではなくて、ともに生きられる時間としての共―時間も有しているのがエイジングです。「そば」としての「とおさ」としてのそのひとの〈かつて・そこ〉にしかいたことのないひとにしかわからない生―時間です。
最後に〈エイジング〉を根拠に愛を詠んでいる句を紹介します。ここでは〈エイジング〉がすべてであり、〈エイジング〉が生と愛の根拠になっています。
干からびた君が好きだよ連れて行く 竹井紫乙
「干からびた君も」ではなく、「干からびた君が」と「干からびた君」になってはじめて定言化されている句の様相が大事だとおもいます。下五の「連れて行く」からは「君」の意志選択は重要でなく、いっさいをこの語り手が引き受けようとしている様子が描かれています。「干からびた君」に対して語り手がえらんでいる行為は、「きみをみている」でも「いっしょにいる」でもなく、「連れて行く」です。そしてその行為の根拠は、「連れて行く」根拠も「好きだ」とおもう根拠も、おそらく「君」が「君」であると感じられた根拠も、「干からびた」にあります。
こうしたエイジングが、語り手の現在進行形としての〈ing〉に転轍されてゆく〈いきいき〉としたパワフルな〈エイジング〉川柳だとおもいます。
以上、読みのさまざまな可能性のひとつの側面として、あえて〈エイジング〉という枠組みで短詩をかんがえてみました。最後に保湿ということで。
加湿器が主題となった読書会 柳本々々
(川柳綿毛の会2014年7月)
【わたしが干からびても】
文学研究においても〈老い(エイジング)〉の側面からまた文学をとらえなおす試みがなされたりしているんですが(倉田容子『語る老女 語られる老女─日本近現代文学にみる女の老い』、尾形明子・長谷川啓編『老いの愉楽─「老人文学」の魅力』)、短詩において〈老い〉というものがどういうふうに主題化されているのかというところは興味深いところだとおもいます。
そこであえて〈エイジング〉から短詩をとらえてみるとどういうことが考えられるかをかんがえてみようとおもいます。
石川さんの句は、〈朽ちる〉は〈老い〉ではないですが、ここでは主体が引き受ける負の変容としての〈朽ちる〉=〈エイジング〉としてあえてとらえてみようとおもいます。句をみてわかるのは、〈わたし〉の朽ちていく様相が〈あなた〉との関係=連関によって描き出されているところです。
わたしとあなたの視線の接着点を「朽ちていくところ」に見いだしているところにこの句のポイントがあるように思います。
〈エイジング〉をわたしとあなたの結び目とするということは、そこに〈これから〉と〈これまで〉の時間をひきこむことでもあります。〈エイジング〉というのは、〈これまで〉のわたしではなくなり、〈これから〉のわたしになっていかざるをえないわたしの力や意志ではいかんともしがたい〈時間〉をめぐる主体のありかただからです。そしてこの句にあらわれているように、〈朽ち〉るというのはたぶんにわたしが朽ちる主体になっていくことによって〈あなた〉に〈みられ〉る客体にもなっていくところとも関係しています。
そうした〈時間〉と〈あなた〉をめぐる朽ちる主題が、この句からはわかってきます。
この時間をポイントにエイジングを描いているつぎのような歌があります。
年老いていかないでわかった 言ったそばから君はもうとおくなる 藤島優実
藤島さんのこの歌では「わかった」という発話がすぐに裏切られることで〈エイジング〉の不可抗力のありかたが効果的に描き出されているいるように思います。意志や発話やことばの彼岸にある〈老い〉が描き出されています。
定型でくぎれば、「としおいて/いかないでわか/ったいった」と「わか/った」が分割されてしまいますが、このようにことばを割るものとして、ことばを失効させるちからとして、この歌においては〈エイジング〉は関係的に現出しているとういことです。
また〈エイジング〉が、客観的な時間のなかで現出するものではなくて、「言ったそばから君はもうとおくなる」のように主観的な生きられる時間のなかにあるのも注意したいとおもいます。だから〈エイジング〉とは負の側面として言説化されがちですが(アンチエイジング!)、そうではなくて、ともに生きられる時間としての共―時間も有しているのがエイジングです。「そば」としての「とおさ」としてのそのひとの〈かつて・そこ〉にしかいたことのないひとにしかわからない生―時間です。
最後に〈エイジング〉を根拠に愛を詠んでいる句を紹介します。ここでは〈エイジング〉がすべてであり、〈エイジング〉が生と愛の根拠になっています。
干からびた君が好きだよ連れて行く 竹井紫乙
「干からびた君も」ではなく、「干からびた君が」と「干からびた君」になってはじめて定言化されている句の様相が大事だとおもいます。下五の「連れて行く」からは「君」の意志選択は重要でなく、いっさいをこの語り手が引き受けようとしている様子が描かれています。「干からびた君」に対して語り手がえらんでいる行為は、「きみをみている」でも「いっしょにいる」でもなく、「連れて行く」です。そしてその行為の根拠は、「連れて行く」根拠も「好きだ」とおもう根拠も、おそらく「君」が「君」であると感じられた根拠も、「干からびた」にあります。
こうしたエイジングが、語り手の現在進行形としての〈ing〉に転轍されてゆく〈いきいき〉としたパワフルな〈エイジング〉川柳だとおもいます。
以上、読みのさまざまな可能性のひとつの側面として、あえて〈エイジング〉という枠組みで短詩をかんがえてみました。最後に保湿ということで。
加湿器が主題となった読書会 柳本々々
(川柳綿毛の会2014年7月)
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