【お知らせ】「Re:Re:Re:Re:Re:くろやぎさん 『おかじょうき』第246号(2014年7月号)を読んで」『週刊俳句 Haiku Weekly第383号 特集 柳×俳』
- 2014/08/24
- 09:29
『週刊俳句 Haiku Weekly第383号 特集 柳×俳』にて「『おかじょうき』第246号(2014年7月号)を読んで」という文章を載せていただきました。『週刊俳句』編集部にお礼申し上げます。ありがとうございました。
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回の記事では『おかじょうき』からひとつの席題「メール」によってどれくらい川柳を通してバラエティが出るのかといった〈驚き〉をそのまま感想文にしてみました。
とくに「メール」という題詠が面白いと思うんですが、なぜこの題詠が〈特殊〉なのかというと、メールというのは内容指示的ではなく、行為遂行的なことばだと思うんですね。意味を使うことばではなくて、ふだんの日常の行為することばがこの「メール(する)」ということばです。
ですから、この「メール」という題から句を詠むことはめいめいがおのおのの生活のなかでどのような〈ことば〉を〈行為〉しているかがおのずとあらわれてくるようにおもうんですね。
もしくはこんなふうにいってみてもいいかもしれません。〈ことば〉が〈句〉にどのように〈行為〉させるか、と。
今回の『週刊俳句』は〈川柳〉と〈俳句〉の折衝=共約点=差異を〈×〉に(たぶん)含めもつ「柳×俳特集号」です。
西原天気さんがこの号の「川柳と俳句のあいだ 「ねじまき放談『川柳と俳句』」を読みつつ」において次のように述べられています。
川柳の人と俳句の人が、例えば同じ雑誌をやると、おもしろいかもしれませんよ。俳句とも川柳とも標榜せず、俳人+柳人とも公言せず。
これ、思いついたのはずいぶん前なのですが、『週刊俳句』の「柳俳合同誌上句会」を見ていて、意を強くしたのです。おもしろいです(選評もお楽しみください)。
共通点や相違点を超えて(というか、そんなことじゃまくさいから、四の五の言わずに)定型が30個並ぶ。それを見ていると、違うものをめざして、違うアプローチをする、異質なテクストが同じ場所に並ぶほうが、むしろおもしろいんじゃないのか、と思ってしまったものですから。
わたしはこの西原さんのことばにあるジャンルを超えた「四の五の言わずに」感が大事だと思っていて、ときに、有無をいわせず、ただ「定型」だから、というそれだけを軸にしてテクストをあえて〈並列〉させてしまうのはありではないかと思っています。
そうすると、ジャンルを読み手が(もがきつつ)生成し、分節しなければなりません。
100メートルプールにとつぜん投げ込まれて、もがきながらクロールをする感じにも近いと思いますが、でももがいてゆくうちにかつてしていたはずの〈クロール〉を身体的に思い出していく場合も、ある。そうすると、あえての〈暴力〉的な〈境界破壊者〉にときになる必要もあるのではないか。
そんなときにふっと思い出したのが、中家菜津子(夏嶋真子)さんの「うずく、まる」です。
中家さんのこの〈詩〉のなかには、詩と、散文と、短歌と、俳句と、川柳が〈共ー在〉していますが、しかし大事なことは、「短歌/俳句/川柳」というジャンルの〈署名〉がなされないことによって、読み手がジャンルの〈承認〉を得られないことです(それはどのジャンルにも属さない〈文〉=エクリチュールと呼ぶべきものかもしれません)。
この中家さんの〈文〉の感想文を書こうとすればわかることですが、読み手はまずこれが「短歌/俳句/川柳」であるかいなかを問い始めなければなりません。どこにも〈署名〉はないのですから。
つまりわたしはこの中家さんの〈文〉のひとつのおもしろさは、ジャンルの亡霊化と、そのときに現象するジャンルの身体性にあるとおもうのです。そしてそうした破壊的亡霊加減において〈詩性〉があるのではないかと。〈詩〉が、自己言及的に解体構築をくりかえす言語現象であるとするならば。
もしくは、あえてこんないいかたをしてもいいのかもしれません。ジャンルとは、いつでも象徴的暴力なのである、と。
わたしたちはまず、これは俳句である、これは川柳である、これは短歌である、と、暴力的措定としての象徴的暴力をふるってから、〈ことば〉を読んでいるのだ、と。
それが、〈ジャンル〉なのだと。
この「柳×俳特集号」には西原さんがおっしゃったようにジャンルの〈署名〉のなされない興味深い句会(週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月)、が行われています。身体が浮遊している亡霊ジャンルの句とむきあったとき、わたしたちはどのように身体感覚を発動させるのかといった興味深い裏テーマがひそんでいるようにさえ、わたしは思います。
プールの向こう側にたどりつくまえに、ふたたび、西原さんのことばを。
俳句のいちばんオイシイとこ、川柳のいちばんオイシイとこを探していくという、ちょっとカジュアルに態度を変えてみるもいいと思うのです。すると、あんがい、コクの部分は俳句と川柳で同じだったりする。違っていたらいたらで愉しい。
署名なきジャンルのなかで《あえて》溺れるクロールをえらんだときに、身体は自然とプールの「おいしいとこ」をその手につかみ、もがき、かきわけるように、おもいます。
以上、わたしの(溺れながらの)クロールでした。
クイックターン、です。
nで、nー1で書く、スローガンで書く。
リゾームをつくれ、根をつくるな、決して植えるな! 蒔くな、突っ込め!
一でも多でもなく、多様体であれ!
線をつくれ、決して点をつくるな! スピードは点を線に変える!
速くあれ、その場にいるままでも!
チャンスの線、ヒップの線、逃走線。
あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい理念ではなく、或るひとつの理念だけでいい(ゴダール)。
短い理念だけを持て。
地図を作れ、写真でもない、デッサンでもない!
ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた、スズメバチとラン、ネコとヒヒのごとくであるように。
ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』
お時間のあるときにお読みくだされば、さいわいです。
今回の記事では『おかじょうき』からひとつの席題「メール」によってどれくらい川柳を通してバラエティが出るのかといった〈驚き〉をそのまま感想文にしてみました。
とくに「メール」という題詠が面白いと思うんですが、なぜこの題詠が〈特殊〉なのかというと、メールというのは内容指示的ではなく、行為遂行的なことばだと思うんですね。意味を使うことばではなくて、ふだんの日常の行為することばがこの「メール(する)」ということばです。
ですから、この「メール」という題から句を詠むことはめいめいがおのおのの生活のなかでどのような〈ことば〉を〈行為〉しているかがおのずとあらわれてくるようにおもうんですね。
もしくはこんなふうにいってみてもいいかもしれません。〈ことば〉が〈句〉にどのように〈行為〉させるか、と。
今回の『週刊俳句』は〈川柳〉と〈俳句〉の折衝=共約点=差異を〈×〉に(たぶん)含めもつ「柳×俳特集号」です。
西原天気さんがこの号の「川柳と俳句のあいだ 「ねじまき放談『川柳と俳句』」を読みつつ」において次のように述べられています。
川柳の人と俳句の人が、例えば同じ雑誌をやると、おもしろいかもしれませんよ。俳句とも川柳とも標榜せず、俳人+柳人とも公言せず。
これ、思いついたのはずいぶん前なのですが、『週刊俳句』の「柳俳合同誌上句会」を見ていて、意を強くしたのです。おもしろいです(選評もお楽しみください)。
共通点や相違点を超えて(というか、そんなことじゃまくさいから、四の五の言わずに)定型が30個並ぶ。それを見ていると、違うものをめざして、違うアプローチをする、異質なテクストが同じ場所に並ぶほうが、むしろおもしろいんじゃないのか、と思ってしまったものですから。
わたしはこの西原さんのことばにあるジャンルを超えた「四の五の言わずに」感が大事だと思っていて、ときに、有無をいわせず、ただ「定型」だから、というそれだけを軸にしてテクストをあえて〈並列〉させてしまうのはありではないかと思っています。
そうすると、ジャンルを読み手が(もがきつつ)生成し、分節しなければなりません。
100メートルプールにとつぜん投げ込まれて、もがきながらクロールをする感じにも近いと思いますが、でももがいてゆくうちにかつてしていたはずの〈クロール〉を身体的に思い出していく場合も、ある。そうすると、あえての〈暴力〉的な〈境界破壊者〉にときになる必要もあるのではないか。
そんなときにふっと思い出したのが、中家菜津子(夏嶋真子)さんの「うずく、まる」です。
中家さんのこの〈詩〉のなかには、詩と、散文と、短歌と、俳句と、川柳が〈共ー在〉していますが、しかし大事なことは、「短歌/俳句/川柳」というジャンルの〈署名〉がなされないことによって、読み手がジャンルの〈承認〉を得られないことです(それはどのジャンルにも属さない〈文〉=エクリチュールと呼ぶべきものかもしれません)。
この中家さんの〈文〉の感想文を書こうとすればわかることですが、読み手はまずこれが「短歌/俳句/川柳」であるかいなかを問い始めなければなりません。どこにも〈署名〉はないのですから。
つまりわたしはこの中家さんの〈文〉のひとつのおもしろさは、ジャンルの亡霊化と、そのときに現象するジャンルの身体性にあるとおもうのです。そしてそうした破壊的亡霊加減において〈詩性〉があるのではないかと。〈詩〉が、自己言及的に解体構築をくりかえす言語現象であるとするならば。
もしくは、あえてこんないいかたをしてもいいのかもしれません。ジャンルとは、いつでも象徴的暴力なのである、と。
わたしたちはまず、これは俳句である、これは川柳である、これは短歌である、と、暴力的措定としての象徴的暴力をふるってから、〈ことば〉を読んでいるのだ、と。
それが、〈ジャンル〉なのだと。
この「柳×俳特集号」には西原さんがおっしゃったようにジャンルの〈署名〉のなされない興味深い句会(週刊俳句・柳俳合同誌上句会 2014年8月)、が行われています。身体が浮遊している亡霊ジャンルの句とむきあったとき、わたしたちはどのように身体感覚を発動させるのかといった興味深い裏テーマがひそんでいるようにさえ、わたしは思います。
プールの向こう側にたどりつくまえに、ふたたび、西原さんのことばを。
俳句のいちばんオイシイとこ、川柳のいちばんオイシイとこを探していくという、ちょっとカジュアルに態度を変えてみるもいいと思うのです。すると、あんがい、コクの部分は俳句と川柳で同じだったりする。違っていたらいたらで愉しい。
署名なきジャンルのなかで《あえて》溺れるクロールをえらんだときに、身体は自然とプールの「おいしいとこ」をその手につかみ、もがき、かきわけるように、おもいます。
以上、わたしの(溺れながらの)クロールでした。
クイックターン、です。
nで、nー1で書く、スローガンで書く。
リゾームをつくれ、根をつくるな、決して植えるな! 蒔くな、突っ込め!
一でも多でもなく、多様体であれ!
線をつくれ、決して点をつくるな! スピードは点を線に変える!
速くあれ、その場にいるままでも!
チャンスの線、ヒップの線、逃走線。
あなたのうちに将軍を目覚めさせるな! 正しい理念ではなく、或るひとつの理念だけでいい(ゴダール)。
短い理念だけを持て。
地図を作れ、写真でもない、デッサンでもない!
ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた、スズメバチとラン、ネコとヒヒのごとくであるように。
ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』
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