【短歌】すこしだけ……/よくみれば……(『角川短歌』2014年9月号)
- 2014/08/24
- 12:42
すこしだけ眉がうごいてNOというでもくちびるがYESといった 柳本々々
(「題詠「眉」を詠う・松坂弘 選」『角川短歌』2014年9月号)
よくみれば体育座りは複雑に折り畳まれたこころのようだ 柳本々々
(「第449回 公募短歌館・特選・春日真木子・三井修 共通選」『角川短歌』2014年9月号)
【体育座りで書く文学入門-歴史的うずくまる-】
春日真木子さんから「体育座りは、三角座りともいう。膝も肱も曲りが多く、無理矢理に固められるようだ。『折り畳まれたこころ』と心の屈折へ引き寄せての表現は巧みである」との選後評を、三井修さんから「結句の比喩が意表を衝く。『体育座り』が出てくるので比較的若い作者であるが、作者自身が『複雑に折り畳まれたこころ』の持ち主なのだろう」との選後評をいただいた。
ありがとうございました!
わたしは、体育座りがすきで、よくあちこちで体育座りをしているのだが、これをゲリラ体育座りと呼んでいる。
体育座りのゲリラ性とはいついかなるときでもやろうと思ったその瞬間に体育座りができることであり、時と場所を選ばないことだ。
ときどき、体育座りをしたまま、時空を超えることもあるが、そのようなアナログとSFの組み合わせにおいて、体育座りはもっともその効力を発揮するのではないかと、おもうことがある。
ちなみに、文学においても、たびたび〈体育座り〉は確認されている。
たとえば、ベケットの『ゴドーを待ちながら』でもいいし、夏目漱石の『門』でもいいし、トゥーサンの『浴室』でも、いい。
ともかく、みずからのからだを、抱きかかえることが、だいじなのだ。
体育すわりとは、わたしが、わたしによって、だきしめられている、という自己言及的な身体所作であり、自己幻想としての身体構築である。
わたしは、わたしに、ふれ、わたしは、わたしから、ふれられる。
そのとき、わたしは、ゴドーが来ないことをさとるのだし、門が永久にひらかないこと、永住できる浴室なんてないことを、確認する。
幻想は身体によって構築されるが、その幻想がやぶられるのもまた、身体によってである。
体育座りは、いつでも、幻想的だ。
校庭で整然と体育座りをしているひとびと、だれもが、そのときかぎりの、幻想文学者なのである。
だから、わたしは、歴史/文学のなかで、
うずく、まるわたしはあらゆるまるになる月のひかりの信号機前 中家菜津子
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