【感想】岡野大嗣「選択と削除」-「と」の遍在-
- 2014/08/25
- 12:00
まもなくひがくれます ナビの案内を無視して空が青を維持する 岡野大嗣
【選択+削除+1+1+1+n+……】
第57回短歌研究新人賞次席の連作である岡野大嗣さんの「選択と削除」の感想です。
この「選択と削除」のタイトルそのものからも感じられるように思うんですが、〈デジタルな感性〉の感覚が短歌のなかでどのように形成されていくかといったことを感じました。たとえば「選択と削除」はわたしたちがふだん行っている〈選択〉して〈削除〉するといったゼロワン的なデジタルの感性にも近いのではないかと。
具体的にいえば、たとえば、
まさに膣そのもの、という件名が一瞬見えて Norton が消す
この歌の選択する主体は〈わたしたち〉ではなくて、「Norton」というソフトウェアが行うデジタル主体です。ところが「まさに膣そのもの」という「一瞬」
の〈読みとり〉によってデジタル化できない語り手の反デジタル感性がほのみえているのがこの歌のおもしろさではないかと思うんです。「選択と削除」はデジタルのシステムによって行われはするが、「選択」も「削除」
もしえない反デジタルな条件反射的身体感覚がある。
入口から出るおじさんを微速度の産卵シーン見るように見る
たとえばこの歌は「微速度」ということばからわかるように、デジタルな〈視点〉を通した肉眼です。そこではかつてベンヤミンが映画について述べていたような、映画的技法(たとえばクローズアップ)によって人間の見方そのものが変わってゆく事態が描かれています。
ところがこの「微速度」的処理としての「選択と削除」に、語り手は「おじさん」という話態を「選択」し、他のラベル(中年、人間、男性)を削除してこの短歌を形成しています。
ここにもデジタル感性が身体的感性とどのように折り合える/ないかといったそうした「選択と削除」の〈あわい〉が描かれているようにおもいます。
空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った
とても長い長歌です。これをあえて簡単な主述文に要約すると「母が作った」です。
この長い歌をみてすぐに気がつくことは語り手が〈いちいち〉ひっかかっていることです。「(空席の目立つ)車内」「(ひとり何かを呟いている)青年」「)手作りの)ナップサック」。こんなふうに、空間・ひと・物に対して、ていねいに修辞をつけくわえ立ち止まることによってこの歌は必ずしも「母が作った」という主述に回収されない、同時多発的な消失点をもった構造になっている長歌ではないかとおもうんです。
そしてそれは短歌という〈みじかさ〉ではなしえない、力点の遍在でもあるとおもいます。短歌とは、定型としての「選択と削除」をとおして力点を偏在化させることです。
しかしこの長歌は「選択と削除」をとおして力点を遍在化させることによって逆に「選択と削除」がなしえない歌の構造を構造化している。なぜなら、読み手が「母が作った」と意味性だけで要約してしまった場合、そこには多数の力点が失われることでこの歌の構造そのものが崩壊してしまうからです。
だから全体をとおしてこの歌をもういちどみてみるならば、これはゼロワン的な0と1の消失点のありかたをもった歌ではなく、1+1+1+1+n+……といった力点をあえて遍在化していく歌なのではないかとおもうのです。
デジタルの「選択と削除」を解消しえなかった語り手の身体性の露開は、
レジ上の四分割のモニターのどこにも僕がいなくて不安 岡野大嗣
【選択+削除+1+1+1+n+……】
第57回短歌研究新人賞次席の連作である岡野大嗣さんの「選択と削除」の感想です。
この「選択と削除」のタイトルそのものからも感じられるように思うんですが、〈デジタルな感性〉の感覚が短歌のなかでどのように形成されていくかといったことを感じました。たとえば「選択と削除」はわたしたちがふだん行っている〈選択〉して〈削除〉するといったゼロワン的なデジタルの感性にも近いのではないかと。
具体的にいえば、たとえば、
まさに膣そのもの、という件名が一瞬見えて Norton が消す
この歌の選択する主体は〈わたしたち〉ではなくて、「Norton」というソフトウェアが行うデジタル主体です。ところが「まさに膣そのもの」という「一瞬」
の〈読みとり〉によってデジタル化できない語り手の反デジタル感性がほのみえているのがこの歌のおもしろさではないかと思うんです。「選択と削除」はデジタルのシステムによって行われはするが、「選択」も「削除」
もしえない反デジタルな条件反射的身体感覚がある。
入口から出るおじさんを微速度の産卵シーン見るように見る
たとえばこの歌は「微速度」ということばからわかるように、デジタルな〈視点〉を通した肉眼です。そこではかつてベンヤミンが映画について述べていたような、映画的技法(たとえばクローズアップ)によって人間の見方そのものが変わってゆく事態が描かれています。
ところがこの「微速度」的処理としての「選択と削除」に、語り手は「おじさん」という話態を「選択」し、他のラベル(中年、人間、男性)を削除してこの短歌を形成しています。
ここにもデジタル感性が身体的感性とどのように折り合える/ないかといったそうした「選択と削除」の〈あわい〉が描かれているようにおもいます。
空席の目立つ車内の隅っこでひとり何かを呟いている青年が背負っているものは手作りのナップサックでそれはわたしの母が作った
とても長い長歌です。これをあえて簡単な主述文に要約すると「母が作った」です。
この長い歌をみてすぐに気がつくことは語り手が〈いちいち〉ひっかかっていることです。「(空席の目立つ)車内」「(ひとり何かを呟いている)青年」「)手作りの)ナップサック」。こんなふうに、空間・ひと・物に対して、ていねいに修辞をつけくわえ立ち止まることによってこの歌は必ずしも「母が作った」という主述に回収されない、同時多発的な消失点をもった構造になっている長歌ではないかとおもうんです。
そしてそれは短歌という〈みじかさ〉ではなしえない、力点の遍在でもあるとおもいます。短歌とは、定型としての「選択と削除」をとおして力点を偏在化させることです。
しかしこの長歌は「選択と削除」をとおして力点を遍在化させることによって逆に「選択と削除」がなしえない歌の構造を構造化している。なぜなら、読み手が「母が作った」と意味性だけで要約してしまった場合、そこには多数の力点が失われることでこの歌の構造そのものが崩壊してしまうからです。
だから全体をとおしてこの歌をもういちどみてみるならば、これはゼロワン的な0と1の消失点のありかたをもった歌ではなく、1+1+1+1+n+……といった力点をあえて遍在化していく歌なのではないかとおもうのです。
デジタルの「選択と削除」を解消しえなかった語り手の身体性の露開は、
レジ上の四分割のモニターのどこにも僕がいなくて不安 岡野大嗣
- 関連記事
スポンサーサイト
- テーマ:読書感想文
- ジャンル:小説・文学
- カテゴリ:々々の短歌感想