【感想】山本まとも「デジャ毛」-世界のそこかしこにあるデジャ毛-
- 2014/08/25
- 12:05
玄関を開けたら風が激しくて80円分くらいうれしい 山本まとも
【デジャ毛的感性の生成】
第57回短歌研究新人賞候補作の連作である山本まともさんの「デジャ毛」の感想です。
この山本まともさんの連作に通底しているのは、〈かたち〉への〈気づき〉なのではないかとおもったんです。
いろいろな形の鉢のいろいろの形に土がおさまっている
土という内容物が、「いろいろな形の鉢」をとおして「いろいろの形」式をとる。そのときに大事なことは、その「いろいろの形」が並・存しているありようをただそのままに描き出すことなのではないかと思うんですね。
バイパス沿いの漫画喫茶の天井に紐がくねっているたぶん今も
これもですね、「バイパス沿いの漫画喫茶の天井」という「鉢」をとおして浮かび上がる「くねっている」「紐」のかたちです。
適切な質の空気をのせている二十世紀のエッグスタンド
この歌でいうならば、「エッグスタンド」をとおした「適切な質の空気」です。
さまざまな〈かたち〉=〈うつわ〉を通して〈かたち〉としての〈出来事〉が形成されていく。ただ語り手はその〈出来事〉に徹底して〈立ち会う〉だけです。
つまり、この連作において世界のそこかしこに〈かたち〉を見出しているのは語り手なのですが、にもかかわらず、語り手とは〈無関係〉に〈かたち〉は生成されています。さきほどの漫画喫茶の歌の「たぶん今も」という結語にそれはよく現れています。語り手が感得し、短歌として形式化した「紐がくねっている」かたちなのですが、しかしそれは語り手とは無連絡に生成されているかたちの世界なのであり、語り手が把持できるのは「たぶん今も」といったかたちの世界でしかない。
そしてそうした〈たちあうことしかできない感得されたかたちの世界〉がいうなれば、「デジャ毛」ではないかとわたしはおもうのです。
右乳首から4センチ内側に生えたデジャ毛を抜かないでおく
ここでのかたちを媒介するメディアは、(おそらくは語り手の)「右乳首」です。それは「右乳首」を通して生成された〈かたち〉です。しかも「4センチ」という厳密さをもって語り手はこの「デジャ毛」の様相を記述しています。しかし「抜かないでおく」という結句のようにやはり語り手にとってデジャ毛という〈かたち〉は不可侵のものとしてあります。
そしておそらくそうした〈かたちの不可侵性〉がこの連作に通底しているデジャ毛的〈感性〉のありかたなのではないでしょうか。
突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
カタチ=デジャ毛は思いもかけないインパクトと穴と厳密さと必然性と偶有性をもってわたしたちの眼の前にあらわれます。しかしそのカタチを不可侵のものとして記述したときに、はじめてこの世界にあらわれた〈かたち〉にわたしたちは〈言語〉をとおして触れえることができるようにもおもうのです。つまり、
なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった 山本まとも
【デジャ毛的感性の生成】
第57回短歌研究新人賞候補作の連作である山本まともさんの「デジャ毛」の感想です。
この山本まともさんの連作に通底しているのは、〈かたち〉への〈気づき〉なのではないかとおもったんです。
いろいろな形の鉢のいろいろの形に土がおさまっている
土という内容物が、「いろいろな形の鉢」をとおして「いろいろの形」式をとる。そのときに大事なことは、その「いろいろの形」が並・存しているありようをただそのままに描き出すことなのではないかと思うんですね。
バイパス沿いの漫画喫茶の天井に紐がくねっているたぶん今も
これもですね、「バイパス沿いの漫画喫茶の天井」という「鉢」をとおして浮かび上がる「くねっている」「紐」のかたちです。
適切な質の空気をのせている二十世紀のエッグスタンド
この歌でいうならば、「エッグスタンド」をとおした「適切な質の空気」です。
さまざまな〈かたち〉=〈うつわ〉を通して〈かたち〉としての〈出来事〉が形成されていく。ただ語り手はその〈出来事〉に徹底して〈立ち会う〉だけです。
つまり、この連作において世界のそこかしこに〈かたち〉を見出しているのは語り手なのですが、にもかかわらず、語り手とは〈無関係〉に〈かたち〉は生成されています。さきほどの漫画喫茶の歌の「たぶん今も」という結語にそれはよく現れています。語り手が感得し、短歌として形式化した「紐がくねっている」かたちなのですが、しかしそれは語り手とは無連絡に生成されているかたちの世界なのであり、語り手が把持できるのは「たぶん今も」といったかたちの世界でしかない。
そしてそうした〈たちあうことしかできない感得されたかたちの世界〉がいうなれば、「デジャ毛」ではないかとわたしはおもうのです。
右乳首から4センチ内側に生えたデジャ毛を抜かないでおく
ここでのかたちを媒介するメディアは、(おそらくは語り手の)「右乳首」です。それは「右乳首」を通して生成された〈かたち〉です。しかも「4センチ」という厳密さをもって語り手はこの「デジャ毛」の様相を記述しています。しかし「抜かないでおく」という結句のようにやはり語り手にとってデジャ毛という〈かたち〉は不可侵のものとしてあります。
そしておそらくそうした〈かたちの不可侵性〉がこの連作に通底しているデジャ毛的〈感性〉のありかたなのではないでしょうか。
突っ張り棒が突然落ちる 壁紙のくぼみに先を再びあてる
カタチ=デジャ毛は思いもかけないインパクトと穴と厳密さと必然性と偶有性をもってわたしたちの眼の前にあらわれます。しかしそのカタチを不可侵のものとして記述したときに、はじめてこの世界にあらわれた〈かたち〉にわたしたちは〈言語〉をとおして触れえることができるようにもおもうのです。つまり、
なめらかにくぼんだ石の箸置きが指にやさしい飲み会だった 山本まとも
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