【感想】〈毎日歌壇〉という〈場〉のダイヴ-それは、ノーチラスなのか-
- 2014/08/25
- 13:06
【ゆるやかなメール・シュトローム】
去年のちょうど年末から毎日歌壇に投稿させていただいているのだが(いちばん最初に投稿した歌が「ふゆの日のリア獣」というクリスマスに送った歌だった)、さいきん毎日歌壇をみていると、加藤治郎さんの〈場〉の編成=生成力といったものを感じることがある。
そこには各回ごとに加藤さんが設定しているゆるやかなテーマによる連節があるようなのである。
たとえばそれは〈恋情〉だったり、〈海辺〉だったり、〈別れ〉だったりする。
どうも、ヴェルヌが描いた『海底二万里』の12000冊の蔵書を有する図書室まで完備されたノーチラス号のように〈毎日歌壇〉という船は、奥深い〈底〉を生成しているようなのだ。
たとえば今日の毎日歌壇(2014年8月25日)。
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
爆撃を止める術がないわたくしはまた夢の中でトイレを探す 佐倉まり子
兇悪な事件に慣れてゆくようでキキルキラルル軋るリアルル 井上甃
かんたんなことばにしたいさよならのことばはいつも、あでゅ、とかそうゆう 柳本々々
堅固なテーマが浮き彫りにされるわけではないが、少なくとも〈突発的な死=暴力とめいめいの語り手のスタンス〉といったような〈死=おわり〉に対するすこし込み入った語り手の態度が通底しているようにも、おもえる。
大切なことは選者によってテーマを描き・導き出すことではなく、それとなく〈なにか〉しらの〈星座〉を感知させ、それぞれの歌の意味の流動性を増幅させることではないか。そしてそれを行っているのが、加藤治郎というひとりの選者なのではないか。
加藤治郎さんの『うたびとの日々』を読んでいたときにも感じたことだが、加藤さんにとって短歌とはなによりも相互干渉の強いあらゆる分子がいりみだれる〈場〉としてある(たぶん)。それは《歌を詠む》というただそれだけがプロ・アマ・年齢問わずこの〈場〉に入場するための〈フリーパス〉となるような場であり、そこではどのような位階も設けられない、ただ純粋に〈歌〉が相互交通的に行き来し相互干渉し磁場を形成する〈場〉である(実際、私はまったくの履歴なしの〈よそもの〉としてとつぜんこの毎日歌壇に寄せてもらった)。
もしかしたら、〈短歌〉のいきる場とは、そういったカオスがいっけんコントロールされているようで、いい具合にコントロールされてない〈場〉なのではないかとおもうことがある。
なぜなら〈短歌〉の宿命とおいしさがその〈短さ〉にあるいじょう、短歌とは極端に〈場〉に意味の干渉を受けつつも、その意味をおくりかえし〈場〉をつくりかえていく力をもつものも、また短歌だからだ。
すなわち、短歌〈場〉とは、文字メディアによって固定化されるものでなく、つねに隣り合った歌同士が緩衝し、衝突しあい、〈場〉を流動化させている、そういったエドガー・アラン・ポーが描いたメール・シュトロームのような〈場〉なのではないか。
そのような詩的カオスとしての〈場〉の生成への〈意志〉を加藤治郎さんから、わたしは感じていることがある。ゆるやかな大渦、を。
名前だけおぼえてる人WWW(ウェッブ)でちっちゃな滝を見つけたら来て 加藤治郎
去年のちょうど年末から毎日歌壇に投稿させていただいているのだが(いちばん最初に投稿した歌が「ふゆの日のリア獣」というクリスマスに送った歌だった)、さいきん毎日歌壇をみていると、加藤治郎さんの〈場〉の編成=生成力といったものを感じることがある。
そこには各回ごとに加藤さんが設定しているゆるやかなテーマによる連節があるようなのである。
たとえばそれは〈恋情〉だったり、〈海辺〉だったり、〈別れ〉だったりする。
どうも、ヴェルヌが描いた『海底二万里』の12000冊の蔵書を有する図書室まで完備されたノーチラス号のように〈毎日歌壇〉という船は、奥深い〈底〉を生成しているようなのだ。
たとえば今日の毎日歌壇(2014年8月25日)。
ぼくたちが核ミサイルを見上げる日どうせ死ぬのに後ずさりして 木下龍也
爆撃を止める術がないわたくしはまた夢の中でトイレを探す 佐倉まり子
兇悪な事件に慣れてゆくようでキキルキラルル軋るリアルル 井上甃
かんたんなことばにしたいさよならのことばはいつも、あでゅ、とかそうゆう 柳本々々
堅固なテーマが浮き彫りにされるわけではないが、少なくとも〈突発的な死=暴力とめいめいの語り手のスタンス〉といったような〈死=おわり〉に対するすこし込み入った語り手の態度が通底しているようにも、おもえる。
大切なことは選者によってテーマを描き・導き出すことではなく、それとなく〈なにか〉しらの〈星座〉を感知させ、それぞれの歌の意味の流動性を増幅させることではないか。そしてそれを行っているのが、加藤治郎というひとりの選者なのではないか。
加藤治郎さんの『うたびとの日々』を読んでいたときにも感じたことだが、加藤さんにとって短歌とはなによりも相互干渉の強いあらゆる分子がいりみだれる〈場〉としてある(たぶん)。それは《歌を詠む》というただそれだけがプロ・アマ・年齢問わずこの〈場〉に入場するための〈フリーパス〉となるような場であり、そこではどのような位階も設けられない、ただ純粋に〈歌〉が相互交通的に行き来し相互干渉し磁場を形成する〈場〉である(実際、私はまったくの履歴なしの〈よそもの〉としてとつぜんこの毎日歌壇に寄せてもらった)。
もしかしたら、〈短歌〉のいきる場とは、そういったカオスがいっけんコントロールされているようで、いい具合にコントロールされてない〈場〉なのではないかとおもうことがある。
なぜなら〈短歌〉の宿命とおいしさがその〈短さ〉にあるいじょう、短歌とは極端に〈場〉に意味の干渉を受けつつも、その意味をおくりかえし〈場〉をつくりかえていく力をもつものも、また短歌だからだ。
すなわち、短歌〈場〉とは、文字メディアによって固定化されるものでなく、つねに隣り合った歌同士が緩衝し、衝突しあい、〈場〉を流動化させている、そういったエドガー・アラン・ポーが描いたメール・シュトロームのような〈場〉なのではないか。
そのような詩的カオスとしての〈場〉の生成への〈意志〉を加藤治郎さんから、わたしは感じていることがある。ゆるやかな大渦、を。
名前だけおぼえてる人WWW(ウェッブ)でちっちゃな滝を見つけたら来て 加藤治郎
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