【短歌】『舞姫』の…(「公募短歌館」『角川短歌』2014/5 秀逸・川野里子 選)
- 2014/04/26
- 12:54
『舞姫』の〈失神〉だけを取り出して修論を書くTOKYOの「われ」 柳本々々
(「公募短歌館」『角川短歌』2014年5月号 秀逸・川野里子 選)
【自(分で)解(いてみる)-逃げる日本近代文学史-】
川野里子さんからていねいな選評をいただきました。
「男に捨てられた事を知ったエリスの失神。「TOKYO」は男が逃げ帰った安全な場所だ。そんな場所からエリスの失意を主題に論文に書こうとしている。理屈っぽい歌だが、誠実さが光る」。
この川野さんからいただいたことばを敷衍するかたちですこし考えてみたいのは、この森鴎外『舞姫』の主人公・豊太郎が「逃げ帰った場所」としての東京ならぬ「TOKYO」という場所です。
きのう月波与生さんの句を紹介したときに、〈わからなさ〉が他者との相関関係においては大事なのではないかと書いたんですが、『舞姫』の豊太郎はエリスといざ向かい合おうとするときにそれを〈回避〉してしまうんです。で、エリスをほっといて逃げていってしまうわけです。つまり、近代文学始発の主人公はいざ他者があらわれた際に、きのうの月波さんの句の語り手のように〈わからなさ〉にとどまることをせず、逃げていってしまうわけです。もしかりにいまや得体の知れないものと化してしまっている〈近代的自我〉というものがあるとするならば、それは〈逃走〉=逃げることによって擁護されていたような気がするんです。
たとえば、夏目漱石の『それから』においても、やはり主人公の代助は美千代が「わたしは覚悟を決めました」といった瞬間、それには答えずに逃げ出してしまいます。しかも、〈狂い〉というかたちをとることで、地理的にだけでなく、精神的にも応答できない場所へ逃げていくわけです。
つまり、じぶんの歌でありながら、このうたの語り手はとても安全な場所から安全なことをやろうとしている、ほんとうに他者にむきあえていないかもしれない「われ」ということになるのかもしれないのです。すなわち、ずるい語り手です。
しかし、この語り手に救いがあるとするならば、それは東京を「TOKYO」と相対化している点です。つまりこの語り手にとって東京は東京になることのできない、豊太郎がいたベルリンのように異国の空間です。だからこの語り手は「悲しくてあなたの手話がわからない」距離感をじぶんとじぶんの住んでいる「東京」のあいだにもたざるをえない、そういった語り手が語り手の内部に感じている他者性へのおびえのようなものがあるようにもおもいます。東京に暮らしてることは語り手には東京にならない。語り手はまだエリスのいたベルリンにいる可能性もあるのです。もちろんそれはベルリンではない。だから、この世界のどこにもない場所、 TOKYOというしかないような場所。
それは語り手にとって恐怖でありつつもじぶんという枠組みをこえて他者としてのじぶんとであうことのできる、もういちど他者にむきあうことのできなかったじぶんを再考することができる最後の救いのようにもおもえるのです。
最後になりますが、川野里子さん、選評していただき、ありがとうございました。
余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きてちすぢの涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議りてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
森鴎外『舞姫』
「三千代さん、正直に云つて御覧。あなたは平岡を愛してゐるんですか」
三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡はあなたを愛してゐるんですか」
三千代は矢張りうつむいてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛ゝつた時、三千代は不意に顔を上あげた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇はしかとして、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。
「仕様がない。覚悟を極めませう」
代助は脊中から水を被つた様に顫へた。社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人対ひ合つて、互ひを穴の明く程眺めてゐた。さうして、すべてに逆らつて、互ひを一所に持ち来たした力を互ひと怖れおののいた。
夏目漱石『それから』
(「公募短歌館」『角川短歌』2014年5月号 秀逸・川野里子 選)
【自(分で)解(いてみる)-逃げる日本近代文学史-】
川野里子さんからていねいな選評をいただきました。
「男に捨てられた事を知ったエリスの失神。「TOKYO」は男が逃げ帰った安全な場所だ。そんな場所からエリスの失意を主題に論文に書こうとしている。理屈っぽい歌だが、誠実さが光る」。
この川野さんからいただいたことばを敷衍するかたちですこし考えてみたいのは、この森鴎外『舞姫』の主人公・豊太郎が「逃げ帰った場所」としての東京ならぬ「TOKYO」という場所です。
きのう月波与生さんの句を紹介したときに、〈わからなさ〉が他者との相関関係においては大事なのではないかと書いたんですが、『舞姫』の豊太郎はエリスといざ向かい合おうとするときにそれを〈回避〉してしまうんです。で、エリスをほっといて逃げていってしまうわけです。つまり、近代文学始発の主人公はいざ他者があらわれた際に、きのうの月波さんの句の語り手のように〈わからなさ〉にとどまることをせず、逃げていってしまうわけです。もしかりにいまや得体の知れないものと化してしまっている〈近代的自我〉というものがあるとするならば、それは〈逃走〉=逃げることによって擁護されていたような気がするんです。
たとえば、夏目漱石の『それから』においても、やはり主人公の代助は美千代が「わたしは覚悟を決めました」といった瞬間、それには答えずに逃げ出してしまいます。しかも、〈狂い〉というかたちをとることで、地理的にだけでなく、精神的にも応答できない場所へ逃げていくわけです。
つまり、じぶんの歌でありながら、このうたの語り手はとても安全な場所から安全なことをやろうとしている、ほんとうに他者にむきあえていないかもしれない「われ」ということになるのかもしれないのです。すなわち、ずるい語り手です。
しかし、この語り手に救いがあるとするならば、それは東京を「TOKYO」と相対化している点です。つまりこの語り手にとって東京は東京になることのできない、豊太郎がいたベルリンのように異国の空間です。だからこの語り手は「悲しくてあなたの手話がわからない」距離感をじぶんとじぶんの住んでいる「東京」のあいだにもたざるをえない、そういった語り手が語り手の内部に感じている他者性へのおびえのようなものがあるようにもおもいます。東京に暮らしてることは語り手には東京にならない。語り手はまだエリスのいたベルリンにいる可能性もあるのです。もちろんそれはベルリンではない。だから、この世界のどこにもない場所、 TOKYOというしかないような場所。
それは語り手にとって恐怖でありつつもじぶんという枠組みをこえて他者としてのじぶんとであうことのできる、もういちど他者にむきあうことのできなかったじぶんを再考することができる最後の救いのようにもおもえるのです。
最後になりますが、川野里子さん、選評していただき、ありがとうございました。
余が病は全く癒えぬ。エリスが生ける屍を抱きてちすぢの涙を濺ぎしは幾度ぞ。大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議りてエリスが母に微かなる生計を營むに足るほどの資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。
森鴎外『舞姫』
「三千代さん、正直に云つて御覧。あなたは平岡を愛してゐるんですか」
三千代は答へなかつた。見るうちに、顔の色が蒼くなつた。眼も口も固くなつた。凡てが苦痛の表情であつた。代助は又聞いた。
「では、平岡はあなたを愛してゐるんですか」
三千代は矢張りうつむいてゐた。代助は思ひ切つた判断を、自分の質問の上に与へやうとして、既に其言葉が口迄出掛ゝつた時、三千代は不意に顔を上あげた。其顔には今見た不安も苦痛も殆んど消えてゐた。涙さへ大抵は乾いた。頬の色は固より蒼かつたが、唇はしかとして、動く気色はなかつた。其間から、低く重い言葉が、繋がらない様に、一字づゝ出た。
「仕様がない。覚悟を極めませう」
代助は脊中から水を被つた様に顫へた。社会から逐ひ放たるべき二人の魂は、たゞ二人対ひ合つて、互ひを穴の明く程眺めてゐた。さうして、すべてに逆らつて、互ひを一所に持ち来たした力を互ひと怖れおののいた。
夏目漱石『それから』
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