【感想】このオレの入浴シーンを謎として見る猫アリス牝7ヶ月 工藤吉生
- 2014/08/25
- 18:15
このオレの入浴シーンを謎として見る猫アリス牝7ヶ月 工藤吉生
【感情の特異点への感受性】
以前からこの工藤さんの短歌について考えていたのですが、そんなときにこの短歌はたとえばデリダから考えてみるのはどうだろう、とおもいました。
デリダが『自伝的動物』という本の「ゆえにわれあるところの動物」において、こんなふうに述べています。
私はよく自分に、ちょっと試しに、私は誰なのかと自問する。私は誰なのか、裸でいるとき、不意に、黙ったまま動物の眼差しに、例えば一匹の猫の目に、見つめられているのに気がついたときの私とは誰なのだろう。そんなとき、私は居心地が悪くなる。そう、困惑するのである。どうしてだろう。私は恥じらいの動きを抑えることができなくなる。そのみだらさに対して自分のうちに反発がわき上がってくるのを抑えることができなくなる。裸でいるということ、つまり、自分を身じろぎもせず見つめる、ただ見つめる猫の眼差しの前で、性器をさらし、一糸まとわぬ姿でいるということのうちに含まれるかもしれない不作法さに対して反発がわき上がってくるのである。
ここでこのデリダの猫の眼差しにみつめられてのみずからの裸体の言語化できない〈困惑〉とは、工藤さんの短歌のなかにある「謎」と通底しているようにもおもいます。
この歌がおもしろいのは、下の句でにおいて語り手が《なぜか》猫の素性を詳説しているところです。そこがとても大事だとわたしは思っていて、つまり裸であることを猫にみられつつそれを「困惑」として言語化できない語り手は「猫」の素性を詳細につまびらかにすることによって素性の偏りを必死に調整しようとしているのではないかと思うのです。ところがそれはかえって調整にならず短歌のなかで〈偏り〉になっていきます。「このオレ」はいつまでも「裸」のままであり「猫」は「アリス」という名前を手に入れ「牝」という性別を手に入れ「7ヶ月」という歴史を手に入れています。
この〈偏差〉がこの歌のおもしろさなのではないかとおもいます。
また長くなりますがデリダのことばを引いてみます。
動物はそこ、私の前に、私の近くに、私の目前にいて、私はその後ろに従っている。それゆえまた、彼が私の前にいる以上、彼は私の後ろにもいるのである。彼は私を取り巻いている。そしてこの“私の目の前の存在”である彼はおそらく、自分を見られるがままにすることもできる。だが同時に、哲学はたぶんそのことを忘れているだろうが、というか哲学とはこの計算された忘却そのものなのだが、彼は、私を見ることができるのである。彼は私に対して視点を持っている。絶対的な他者の視点を。そして私は、隣にいる者や近くにいる者の絶対的な他者性について、決してこれほど考えさせられることはないだろう。一匹の猫の眼差しのもとで、自分が裸でいるのを見るという、こうした瞬間以外には。
デリダは、猫のまなざしを「絶対的な他者の視点」といっていますが、工藤さんの短歌において「猫」の視点が短歌という〈わたし〉の視点が特権化される表現様式においてどれだけ饒舌に詳細に語っても言説化できない〈言説の穴〉としての眼差しになっていることが大事なのではないかと思います。猫の「アリス」は「このオレの入浴シーン」だけでなく、短歌という表現のモードに特権化される〈わたしの裸・眼〉をも「謎」化する視線をおくっているのではないかとおもうんです。
猫の名は、アリス。
ふしぎなことですが、デリダもまた、この猫のまなざしの文章を『鏡の国のアリス』の引用ではじめていました。
わたしは、おもうのですが、もしかしたら、〈アリス〉とは視線を結節し、交錯し、すれちがわせる文化的な特異点として存在しているのかもしれません。
わたしは工藤さんの短歌というのはそうしたある特異点の〈気づき〉から形成される〈感情のモード〉が多いようにも思うんですが、たとえば今回の短歌研究新人賞候補作の工藤さんの連作「仙台に雪が降る」のなかのこんな一首にも〈感情のモード〉を形成する〈特異点〉への〈気づき〉をみいだすこともできるかもしれません。
泣いているある時点から悲しみを維持しようとする力まざまざ 工藤吉生
【感情の特異点への感受性】
以前からこの工藤さんの短歌について考えていたのですが、そんなときにこの短歌はたとえばデリダから考えてみるのはどうだろう、とおもいました。
デリダが『自伝的動物』という本の「ゆえにわれあるところの動物」において、こんなふうに述べています。
私はよく自分に、ちょっと試しに、私は誰なのかと自問する。私は誰なのか、裸でいるとき、不意に、黙ったまま動物の眼差しに、例えば一匹の猫の目に、見つめられているのに気がついたときの私とは誰なのだろう。そんなとき、私は居心地が悪くなる。そう、困惑するのである。どうしてだろう。私は恥じらいの動きを抑えることができなくなる。そのみだらさに対して自分のうちに反発がわき上がってくるのを抑えることができなくなる。裸でいるということ、つまり、自分を身じろぎもせず見つめる、ただ見つめる猫の眼差しの前で、性器をさらし、一糸まとわぬ姿でいるということのうちに含まれるかもしれない不作法さに対して反発がわき上がってくるのである。
ここでこのデリダの猫の眼差しにみつめられてのみずからの裸体の言語化できない〈困惑〉とは、工藤さんの短歌のなかにある「謎」と通底しているようにもおもいます。
この歌がおもしろいのは、下の句でにおいて語り手が《なぜか》猫の素性を詳説しているところです。そこがとても大事だとわたしは思っていて、つまり裸であることを猫にみられつつそれを「困惑」として言語化できない語り手は「猫」の素性を詳細につまびらかにすることによって素性の偏りを必死に調整しようとしているのではないかと思うのです。ところがそれはかえって調整にならず短歌のなかで〈偏り〉になっていきます。「このオレ」はいつまでも「裸」のままであり「猫」は「アリス」という名前を手に入れ「牝」という性別を手に入れ「7ヶ月」という歴史を手に入れています。
この〈偏差〉がこの歌のおもしろさなのではないかとおもいます。
また長くなりますがデリダのことばを引いてみます。
動物はそこ、私の前に、私の近くに、私の目前にいて、私はその後ろに従っている。それゆえまた、彼が私の前にいる以上、彼は私の後ろにもいるのである。彼は私を取り巻いている。そしてこの“私の目の前の存在”である彼はおそらく、自分を見られるがままにすることもできる。だが同時に、哲学はたぶんそのことを忘れているだろうが、というか哲学とはこの計算された忘却そのものなのだが、彼は、私を見ることができるのである。彼は私に対して視点を持っている。絶対的な他者の視点を。そして私は、隣にいる者や近くにいる者の絶対的な他者性について、決してこれほど考えさせられることはないだろう。一匹の猫の眼差しのもとで、自分が裸でいるのを見るという、こうした瞬間以外には。
デリダは、猫のまなざしを「絶対的な他者の視点」といっていますが、工藤さんの短歌において「猫」の視点が短歌という〈わたし〉の視点が特権化される表現様式においてどれだけ饒舌に詳細に語っても言説化できない〈言説の穴〉としての眼差しになっていることが大事なのではないかと思います。猫の「アリス」は「このオレの入浴シーン」だけでなく、短歌という表現のモードに特権化される〈わたしの裸・眼〉をも「謎」化する視線をおくっているのではないかとおもうんです。
猫の名は、アリス。
ふしぎなことですが、デリダもまた、この猫のまなざしの文章を『鏡の国のアリス』の引用ではじめていました。
わたしは、おもうのですが、もしかしたら、〈アリス〉とは視線を結節し、交錯し、すれちがわせる文化的な特異点として存在しているのかもしれません。
わたしは工藤さんの短歌というのはそうしたある特異点の〈気づき〉から形成される〈感情のモード〉が多いようにも思うんですが、たとえば今回の短歌研究新人賞候補作の工藤さんの連作「仙台に雪が降る」のなかのこんな一首にも〈感情のモード〉を形成する〈特異点〉への〈気づき〉をみいだすこともできるかもしれません。
泣いているある時点から悲しみを維持しようとする力まざまざ 工藤吉生
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