【感想】北山あさひ「グッドラック廃屋」-わたしの廃屋化-
- 2014/08/25
- 20:18
巨大なる会いたさのことを東京と思うあたしはわたしと暮らす 北山あさひ
【ハロー、廃屋】
北山あさひさんの短歌研究新人賞の連作「グッドラック廃屋」の感想です。
この短歌がおもしろいのは、〈東京〉が再文脈化され、脱地政化されて、〈東京〉を遍在化させている点にあるのではないかとおもうんです。
「巨大なる会いたさ」=「東京」なので、それは東京でなくてもいい。北海道でも、沖縄でも、ベルリンでもいい。
そしてそれは〈会いたさ〉というひとつの飢餓的空白としてあることによって「東京」が〈廃屋〉のように空洞化されている。
北山さん自身が〈廃屋好き〉を明言していますが、そもそも〈廃屋〉とは、なんなのか。
たしか〈廃墟〉というのは18世紀のロマン主義によって〈発見〉されたものだと思うんですが、そういう〈ロマン主義〉的な言語表象の不可能性と関係しているのが〈廃墟〉=〈廃屋〉です。現代のことばでは、ラベルもつけられず、いいあらわしがたいもの、だけれどもそこにマテリアルな〈痕跡〉としてたたずんでいるもの。それが、〈廃墟〉=〈廃屋〉です。
こうしたロマン主義的視線を〈廃屋〉を通してあえて〈東京〉に持ち込み、脱東京化しているのがこの歌なのではないかとおもうのです。
そしてそんなふうに思う「あたし」はやはりロマン主義的に特権化されてきた「わたし」の表象と「暮ら」していくことを選ぶはずです。
しかしそれはただんにロマン主義的視線の敗北(ハイボク)なのではなく、あくまで廃屋(ハイオク)である点が重要だとおもいます。
そうした、いまや廃屋化し、たびたび問題化される「わたし」をあらためて(おそらくは)痕跡から暮らし直し/語り直すことがおそらくはこの語り手だろうからです。
〈結婚〉というロマンティック・ラヴイデオロギーの近代的な制度でさえ、廃屋化していくこと。けれども、そのなかでも「あたしとわたし」の「結婚」を試みること。
そうした言語的廃屋化の実践が北山さんの短歌のひとつのおもしろさなのではないかとおもうのです。
いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい 北山あさひ
ゴシック文化の種は、どうやって蒔かれたか。「グランド・ツアー」なる貴族の趣味によって蒔かれた。
グランド・ツアーとは何か? 端的に言えば、物見遊山の旅行である。
彼らはこの旅で、母国イギリスの長閑な田園風景とはまったく違う、厳しい自然を目にした。断崖絶壁に険しいアルプス、逆巻く激流に狼の群れ。
そんなわけで17世紀のイギリスには、奇妙な趣味が流行するようになった。断崖絶壁や渦巻く激流ばかり描いた絵を飾る、「ピクチャレスク趣味」というやつだ。さらいにこの頃イギリスでは、いっぷう変わった庭造りが流行り出す。生け垣も小道も不規則に曲がり、荒れ果てた林と伸び放題の草が生い茂り、あげくは断崖絶壁に突き当たる。要するにグランド・ツアーで見た風景を真似たような、「英国式庭園」という独特の庭造りが流行するのだ。そしてピクチャレスク趣味や英国式庭園の蔓延の延長に、きわめつけの倒錯趣味が登場する。わざわざ人工の廃墟を庭園内に造り、鑑賞する「廃墟主義」である。
この人工廃墟という代物、イタリアでは既に16世紀から作られていたが、本格的に流行り始めるのが18世紀のこと。
ちなみに当時のヨーロッパには、そんな気分をヒートアップさせる伏線が張られていた。暴力的な自然や激しい感情を褒め称えた一冊の本が、知識人の間で流行していたのである。タイトルを『崇高について』という。そしてこの「崇高こそ最先端」という美意識は、18世紀になるとイギリスにも流入。ついにはエドモンド・バークという批評家が、崇高についての大論文、『崇高と美の観念の起原』を書くまでに至る。
バークが主張する「崇高」の定義は、見る者に恐怖を引き起こし、生命の危機を感じさせる対象。彼の崇高論は現代ゴシック文化の定義として読んでも、ほとんど違和感がない。
樋口ヒロユキ『死想の血統』
【ハロー、廃屋】
北山あさひさんの短歌研究新人賞の連作「グッドラック廃屋」の感想です。
この短歌がおもしろいのは、〈東京〉が再文脈化され、脱地政化されて、〈東京〉を遍在化させている点にあるのではないかとおもうんです。
「巨大なる会いたさ」=「東京」なので、それは東京でなくてもいい。北海道でも、沖縄でも、ベルリンでもいい。
そしてそれは〈会いたさ〉というひとつの飢餓的空白としてあることによって「東京」が〈廃屋〉のように空洞化されている。
北山さん自身が〈廃屋好き〉を明言していますが、そもそも〈廃屋〉とは、なんなのか。
たしか〈廃墟〉というのは18世紀のロマン主義によって〈発見〉されたものだと思うんですが、そういう〈ロマン主義〉的な言語表象の不可能性と関係しているのが〈廃墟〉=〈廃屋〉です。現代のことばでは、ラベルもつけられず、いいあらわしがたいもの、だけれどもそこにマテリアルな〈痕跡〉としてたたずんでいるもの。それが、〈廃墟〉=〈廃屋〉です。
こうしたロマン主義的視線を〈廃屋〉を通してあえて〈東京〉に持ち込み、脱東京化しているのがこの歌なのではないかとおもうのです。
そしてそんなふうに思う「あたし」はやはりロマン主義的に特権化されてきた「わたし」の表象と「暮ら」していくことを選ぶはずです。
しかしそれはただんにロマン主義的視線の敗北(ハイボク)なのではなく、あくまで廃屋(ハイオク)である点が重要だとおもいます。
そうした、いまや廃屋化し、たびたび問題化される「わたし」をあらためて(おそらくは)痕跡から暮らし直し/語り直すことがおそらくはこの語り手だろうからです。
〈結婚〉というロマンティック・ラヴイデオロギーの近代的な制度でさえ、廃屋化していくこと。けれども、そのなかでも「あたしとわたし」の「結婚」を試みること。
そうした言語的廃屋化の実践が北山さんの短歌のひとつのおもしろさなのではないかとおもうのです。
いちめんのたんぽぽ畑に呆けていたい結婚を一人でしたい 北山あさひ
ゴシック文化の種は、どうやって蒔かれたか。「グランド・ツアー」なる貴族の趣味によって蒔かれた。
グランド・ツアーとは何か? 端的に言えば、物見遊山の旅行である。
彼らはこの旅で、母国イギリスの長閑な田園風景とはまったく違う、厳しい自然を目にした。断崖絶壁に険しいアルプス、逆巻く激流に狼の群れ。
そんなわけで17世紀のイギリスには、奇妙な趣味が流行するようになった。断崖絶壁や渦巻く激流ばかり描いた絵を飾る、「ピクチャレスク趣味」というやつだ。さらいにこの頃イギリスでは、いっぷう変わった庭造りが流行り出す。生け垣も小道も不規則に曲がり、荒れ果てた林と伸び放題の草が生い茂り、あげくは断崖絶壁に突き当たる。要するにグランド・ツアーで見た風景を真似たような、「英国式庭園」という独特の庭造りが流行するのだ。そしてピクチャレスク趣味や英国式庭園の蔓延の延長に、きわめつけの倒錯趣味が登場する。わざわざ人工の廃墟を庭園内に造り、鑑賞する「廃墟主義」である。
この人工廃墟という代物、イタリアでは既に16世紀から作られていたが、本格的に流行り始めるのが18世紀のこと。
ちなみに当時のヨーロッパには、そんな気分をヒートアップさせる伏線が張られていた。暴力的な自然や激しい感情を褒め称えた一冊の本が、知識人の間で流行していたのである。タイトルを『崇高について』という。そしてこの「崇高こそ最先端」という美意識は、18世紀になるとイギリスにも流入。ついにはエドモンド・バークという批評家が、崇高についての大論文、『崇高と美の観念の起原』を書くまでに至る。
バークが主張する「崇高」の定義は、見る者に恐怖を引き起こし、生命の危機を感じさせる対象。彼の崇高論は現代ゴシック文化の定義として読んでも、ほとんど違和感がない。
樋口ヒロユキ『死想の血統』
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